2012/01/31

『経営の教科書-社長が押さえておくべき30の基礎科目』/新将命

4478002258 経営の教科書―社長が押さえておくべき30の基礎科目
新 将命
ダイヤモンド社  2009-12-11

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 私は社長ではないけれど、経営者が身に付けるべき観点を知りたいと思い書店に向かったら、本著と、小宮一慶氏の『社長の教科書』が並んでいた。手に取って内容を少し読んでみたところ、『社長の教科書』は箇条書き的にフレーズとその解説文が並び読みやすそうだったのだけど、『経営の教科書』の文章の力に引き寄せられてこちらを選んだ。本著のいちばんの魅力は外連味の無さだと思う。現実性・納得性と普遍性の両立を心がけたと後書にあるが、その通りに伝わってくる。

 誰もが誰も、経営者的になる必要はないと思う。経営者と社員の役割分担はある。だからこそ私は経営者が身に付けるべき観点を知りたいと思った。書かれていることは8割が当たり前のことだけれども、その当たり前のことを得心させてくれる素晴らしい書物だと思う。

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2011/12/31

『あたまの底のさびしい歌』/宮沢賢治・川原真由美

488008347X あたまの底のさびしい歌
宮沢 賢治 川原 真由美
港の人  2005-12-01

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 自分の死後、手紙というものが公にされるのって、どんな気持ちなんだろうか?と少し胸が苦しくなる。自分だったら相当厭なことだなあと思うけれど、本著は敬愛する宮沢賢治の、作品から知る人物像ではない、作品を作らんとする人間である宮沢賢治を知れて、作家とは作品だけで向き合うのがよいのか、作家という人間全体を知ろうと様々な資料に当たるほうがよいのか、考えは巡る。けれどとにかく、この本を手にしたことは最高によいアクションだったと思う。

 幾つかの手紙で、賢治は相反する概念を並列にする。「恋してもよいかも知れない。また悪いかもしれない。」「だまって殺されるなり生きているなりしよう。」「すべては善にあらず悪にあらず」等々。こういう賢治の言い回しでわかるのは、世の中のどんなことも一義的ではないと肝に銘じる賢治の意志の強さ。どう考えたってそれは善いことでしょう(または悪いことでしょう)という行為でも、それは悪いことだ(もしくは正義だ)と訴える、それも自分にとっての都合・利得で言うのではなくそう信じて訴える人がいて然るべきなのだということを、賢治は強く肝に銘じようと努めていたのだと思う。もしくは、善とか悪とかを決めるのは、自分でもなければ誰か別の人でもない。そういう価値判断は、人間が下すべきものではない、と。
 そうやって、諸々様々の視点が入り乱れることを賢治は許容し、その結果当然に混濁させてしまうことになる世界の中で、「しっかりやりましょう。」とただひたすらに繰り返す手紙を賢治は書く。この「しっかりやりましょう」の反復に、僕は胸を打たれる。すべてを認めてしまったら、後は「しっかりやりましょう」とお互いに声を掛け合うのみなのだ。

 賢治が生きた時代は日本にも資本主義が定着していく明治後半~昭和初期なので、どれだけ賢治が崇高な理念を持っていてそれを語れたとしても、勤労に励むことが社会の通念に沿っている時代で、賢治自身も「働いていない自分、こんなんじゃダメだ」と苦悩したことが、手紙の端々から読み取れる。最近、仕事に関する書籍を二冊読み、その歴史、経済の仕組に応じたことが倫理観となって普及させられていくことを学んだところなので、その重さを痛感する。作家の側面を知るということの意義は、こういうことなのだと思う。

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『いま、働くということ』/橘木俊詔

4623061094 いま、働くということ
橘木 俊詔
ミネルヴァ書房  2011-09-01


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 先日、『日本人はどのように仕事をしてきたか』を読んだのですが、あちらが日本人の仕事の歴史を、戦中あたりから、主に経営における人事管理の視線を中心にまとまっていたのに対して、本著は正に「いま」、現代の仕事の捉え方・意義・価値観といったものを、古今東西の哲学、あるいは仕事に対置させうる「余暇」や「無職」の分析によってより深く理解する本です。この2冊を併せて読んだのはちょうど良かったと思います。どちらも非常に簡明な文章で、仕事を考えるための基礎知識を纏めて把握するのに役立ちます。

 印象に残ったこと、考える課題となったことを3点:

  • 「仏教的労働観」の「知識」の説明に感動。「知識」は「情報」ではないのだ。ソーシャルとかコラボレーションとかコワークとかなんだかんだいろいろな新しくて手垢のついていない呼び名で、その自分たちの活動の理想性を表して、他の何かと線を引こうと躍起になっている様をしょっちゅう目にするけれど、僕は今後、「知識」という言葉を自分の行動に活用していこうと思う。
  • 日本人はどのように仕事をしてきたか』でも学んだことで、「勤労」の価値観というのは、その時代の経済のカタチ(日本で言えば高度経済成長)に最も効果のある価値観だから、是とされただけで、普遍的根源的な価値がある訳ではない。資本主義の発展のために、キリスト教が有効に作用した歴史を認識する。同じように、今の日本では「やりたいことをやる」のがいちばんという価値観が広がりつつあるが、この価値観はどんな経済のカタチにとって都合がいいから広がっているのかを考えてみる。
  • 僕がフェミニズムをどうにも好きになれないのは、それが問題の原因を常に「外部」に求めるスタンスだからだ。

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2011/12/30

『これ、いなかからのお裾分けです。』/福田安武

4862020372 これ、いなかからのお裾分けです。
福田安武
南の風社  2010-07-07

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 僕は生粋のど田舎育ちなので、「いなか」を持ち上げる言葉とか話とかがどうも好きになれません。「田舎暮らし」とか、一生田舎で暮らすなんて子どもは絶対嫌がるよ。せめてときどき都会に出れる環境だから、田舎暮らしもいいかな、なんて言えるんだよ。自分の子どもの頃の感覚からそう思ってるんだけど、日本には僕が住んでたような、電車で1時間半で都会に出ようと思えば出れるような環境じゃない田舎もたくさんあって、そういう地域の子ども達は、都会に出たいとより強く思うのかそうじゃないのか、もちろん個人によりけりだろうけど、そういうことを思う。
 この『これ、いなかからのお裾分けです。』の著者は、生半可な田舎ファンじゃなくて、田舎に生まれ育ち田舎を心から愛している「田舎人」なので、その生き方にただただ感服してしまう。僕は田舎で育ったとは言え、引っ越してきたサラリーマン家庭なので、農業を体験する訳でもなく、著者のようなディープな田舎知識は身についてなくて、同じ田舎で生きてもこうも差のつくものなのかと、引いては日々の過ごし方が大きな差になるんだよなと、当たり前のことを改めて反省したり。そして著者が、漁師に憧れたり、漁師になるために大学を選んだり、そこで漁業の現実を知り将来に迷ったりする姿は、真摯過ぎて圧倒。ここまで筋を通して生きていくことはなかなかできない。田舎暮らしのディティールよりも、その筋の通し方に、誰しも感じるところの多い本だと思います。

 田舎で暮らしていくことは、都会で暮らしていくことに較べて、金銭的な豊かさはたいてい劣ることを覚悟しないといけない。「心から喜んでくれる人がいるから、お金儲けにならなくてもいいんだと言うおじいさん」の話が登場するが、これはとても象徴的だと思う、というのは、お金儲けにならなくても暮らしていける要求水準の「おじいさん」ならそういうスタンスで(理想の)生活をやっていけるかも知れないけど、これからいろいろな人生のイベントのある著者が、そういうスタンスで続けていけるのかどうか、そこを指し示すことこそが、現在ではこういう本には必要なことかな、と思う。「はじめてみよう」と誘い出す本はあまた溢れていて、そういうことを言う役割は、もう本では終わったのかな、と。

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2011/12/18

『レインツリーの国』/有川浩

4101276315 レインツリーの国 (新潮文庫)
有川 浩
新潮社  2009-06-27

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 この物語は、もちろん、聴覚障害者の苦しみと、若い頃の父親の喪失という苦しみについて、読み取る物語ではない。その苦しみの「理解できなさ」を読み取る物語でもない。人にはそれぞれ苦しみがあって、その苦しみは聴覚障害や父親の喪失のような特別・特殊なものでなくともその人にとっては苦しみであり、人には理解されることがないのが苦しみなのだ、と読み解くべき物語。教科書的には。それはわかるんだけど、僕は敢えて「聴覚障害者」の部分を、一般化せずにそのまま読みを深めようと思わされた。
 聾と中途失聴の違いは、第一言語が手話か日本語かという違いになる。そして、中途失聴者は、第一言語は日本語で、自分からの伝達は第一言語で行えるのに、自分が受け取る伝達が第一言語だと困難を伴う。この「言語」の分離は、手話のみとなる聾者よりも困難と言える側面があると思う。
 自分と相手は同じ言語を使っているはずなのに、相手の考えていることが完全には理解できない。これは、中途失聴者だけの苦しみではないかもしれない。もし、「相手の考えていることが完全には理解できない」という状況があったとすれば、それは、中途失聴者の状況と同じ状況に置かれていることになる。「同じ言語を使っているのに、相手の考えていることが完全には理解できない」という状況は、中途失聴者のケースを持ちだすことによって理解しやすくなるが、これは、僕たち誰にでも起こりうること、起こっていることだと思う。そして、その苦しみを誰にもわかってもらえないとぼやきがちになるが、それが中途失聴者に限らない以上、主客を入れ替えれば、僕が第一言語である日本語を使って行っている伝達行為が、相手にとってみれば、僕の考えていることが完全には理解できない、という状況に陥っている可能性だってもちろんある。つまり、「誰にもわかってもらえない」苦しみなんかじゃないのだ。この物語は、同じ言語を用いているのに違う発話になる、つまり、ラングとパロールの物語だったのだ。

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