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2005/05/04

『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹/新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル
村上 春樹

新潮社 1997-09
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 久し振りに読み進めたくないという感覚を味わった。そして、言い表しようのないどんよりとした読後感も。この小説の主題は何か。出版されてそう月日が経ってないうちに読んだときは、ただなんとなく、第二次大戦を起点とした歴史の連続性みたいなものだと思って納得していた。生きている人間にはどうしても逃れることのできない運命のようなものが厳然としてあり、本人が自覚しているような運命を更に超えたところで、仮に自覚できたとしてもその自覚できる範疇よりもずっと前から決定付けられていてそれに抗することは無駄なことだと。今読み返してみると、そのときなぜそういう解釈を持ったのかよく判らない。そもそも、僕は本当にこの小説を読んだのだろうか?一巻から三巻まで、通して読み終えたのだろうか?少なくとも、登場人物の名前には心当たりがあった。おおよその物語の流れは「ああそうだったそうだった」と追認することができた。それでも本当に読んだのかどうかはっきりとしたことがわからない。たかだか4年前の話なのに、だ。
 今回再読してそんな印象を持った理由は、多分二つある。ひとつは、4年前出版された小説とは思えないほど「ふるい」タイプの小説だったこと。もうひとつは、思い出されたこの小説に対する以前の解釈とはまったく異なるタイプの解釈を抱いたこと。
 まったく異なるタイプの解釈とは、死に関することであり、世界に関することであり、つまり以前の解釈よりもずっと現実的な解釈だった。読中にはもちろん、クミコと兄・綿谷ノボルの(性的)関係やノモンハン事件の時代の人々やその時代から現代まで継続している人々との複雑な「つながり」や明らかな「孤独」に興味は向いているけれども、同時にそれはあまり重要でもないと考えている。 我々は過ごしている時間を紛れもない現実と 考え疑うことは普段あまり(めったに)ないが、はたして我々は現実をどれくらい正確にそしてどれくらいの質量を捉えているのだろうか。そういう認識論についてもあまり重要ではないと感じてくる。
 どのような血筋でもどのような因果でも、間違いなく人は死んでいく。「つながり」や「孤独」や「ほんとうの現実」や「認識論」はそれぞれ、そのときまでに起こる、あるいは本小説の言葉を借りるなら起こる「可能性のある」事象のひとつひとつに過ぎない。だからオカダ・トオルは待たなければいけない時宜はおとなしく待つことに徹し、進むべきときはよろめきつつも進んで妻・クミコを取り戻そうとしたのだ。一旦は宿命の暗澹たる落とし穴に抵抗しても無駄だと思い知らせるように見せかけ、さらに主人公にそれをも乗り越えさせる振りをさせて、この結末ではいったい何を考えればよいというのだ。繰り返しになるが、結末もプロットも、まして主題を考えることさえもあまり重要でないことは判っている。つまりはどうあれ人は死ぬまでの時間を生きていくだけだという以上の何かは意味がないということなのか。この本の後、いったいどんな本を読めばよいというのだろう。

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