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2009/10/18

『集中講義!日本の現代思想 ポストモダンとは何だったのか』/仲正昌樹

4140910720 集中講義!日本の現代思想―ポストモダンとは何だったのか (NHKブックス)
日本放送出版協会  2006-11

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 放っておけば偏ってしまうから意図的に近寄ることを堪えているもの、ひとつが近代文学でもうひとつが思想・哲学系。なんも考えなかったら延々この二つのジャンルばかり読んでしまう。なのでなるべく避けてたんだけど、最近、どうしても抑えが利かなくなってて数冊読んでおり、今回手に取ったのがこれ。構造主義、ポスト構造主義をちゃんと整理したくなったのと、日本の現代思想について、現代に至る少し手前、安保あたりから整理したくなったのがきっかけ。

 大枠で印象に残ったのは3点。ひとつは「無限」をどう扱うか、という手法の問題。ひとつは「過去の自分をどう否定あるいは清算するべきなのか?」という問題。もうひとつは、やはり現代は「歴史」を求めてるのではないか?という問題。

 最初の”「無限」をどう扱うか?”は、構造主義の「メタ構造」、つまり「ポスト構造主義」の発端についての理解。ポスト構造主義に触れたときの印象はいつも「バラバラになっていく」という感覚で、「私はあなたと違う」式のモノの言い方をする人に対して「ああそうですか。で?」と言ってしまう心情を強化する感覚。なぜ差異が欲しくなるのか、差異があるからなんだっていうのか、別に思想や哲学に触れていなくても、自分の本性に誠実であろうとすれば見えてくるものがある。そこに誠実であろうとしない人に対して、ポスト構造主義の考え方を当てはめてみたくなってしまう。

 次の「過去の自分をどう否定あるいは清算するべきなのか?」は、文字通り転向や転回の問題。日本は特に、戦後の転向を簡単に許した歴史に始まり、あっけなく昨日までの思想・信条を捨ててしまうことに否定的でない。立場が変われば、もっと言えば気が変われば、簡単に思想・信条を変えて構わない。その時々の状況の責任にすることができる。逆に言えば、その時々の自分は「何も考えていなかった」と言える、ということ。ここでも、「わたしはあなたとは違う」式のものを言う人に何か一言言いたくなる。「自分のことを自分のこととしてだけ、表現することはできないのですか?」と。自分のことを表すために誰かを引き合いにだして誰かを貶めて、挙句に後になって「あれは本位じゃない」では引き合いに出されたほうはたまったもんじゃない。僕のものの考え方はこの「胡散臭さ」を突き止め、自分はそれを乗り越えるところが出発点だ。 

 本著を読んで、改めて読みたいと思った書籍:

パサージュ論 (岩波現代文庫) パサージュ論 (岩波現代文庫)

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表徴の帝国 (ちくま学芸文庫) 表徴の帝国 (ちくま学芸文庫)
Roland Barthes

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p21「どこに着地するのか最後まで予想しにくいポストモダン的なパースペクティブよりも、すべてを「敵/味方」に”わかりやすく”分離することを信条とする二項対立の論理が好まれるようになれば、「現代思想」の出番はなくなる
p32「他の反体制勢力と協力しながらブルジョワ民主主義革命の完遂を目指すべきだとする二段階革命論を提唱する講座派」
p34「マルクス主義における「疎外」とは、分業化の進んだ資本主義的な労働プロセスの中で、労働者が自分自身の主体性にもとづいて自分の身体を使って”生き生き”と労働している、という感覚をもてなくなる現象である」
p34「仏教的な「無」の概念を中心とする西田哲学は、普通に考えれば、徹底した唯物論であるマルクス主義とは対極にあるはずである。戦前、悌たちとともにマルクス主義者系哲学者のサークル「唯物論研究会」の主要メンバーであった戸坂潤は、あらゆることを恣意的に説明できてしまいそうな、究極の形而上学とも言うべき「場所の論理」を操る西田などの京都学派の思想を、「日本イデオロギー」の典型とみなして危険視していた。」
p46「「保守」のほうが、「革新」より新しい」「フランス革命に脅威を感じて、保守思想を体系化するようになって以来、西欧政治思想史の一般的趨勢」
p51「西欧の思想を輸入するにあたっても、その思想が形成された歴史的文脈を無視して、自分に理解しやすいところだけ、つまみ食い的に取り入れる傾向があったこと
p66「旧左翼/新左翼の違いという域を超えて、明らかにマルクス主義そのものからの逸脱」「幻想共同体としての「国家」が、生産様式の変化よりもさらに深いところで、大衆の深層意識を規定しているとすれば」
p68「吉本は、「日本の大衆が大きな変化を望まないのはなぜか?」というそれまで本格的に論じられてこなかった問題を提起した」
p72「疎外Entfremdung」「物象化Versachlichung」
p72「「物象化」というのは、・・・商品自体に”交換価値”なるものが実態的な属性として含まれているわけではない、しかし、・・・”物”である商品が、人間を支配しているかのように見える現象が起こる」「物神化」
p76「共同主観性」
p88「パサージュ論」「パサージュを中心とする都市の景観をフラヌールの視点から描き出した」「商品の発するユートピア的なファンタスマゴリー作用」
p92「テンポがズレているおかげで、少しだけ覚醒しているベンヤミンの「遊歩者」は、自分の方向性を自分で決められない、頼りない主体である。」
p94「そのようなモノの複合的な誘惑が端的に現れる場が、百貨店やドラッグストアだ」
p102「表徴の帝国」
p104「物と物の間の「差異」を指し示す「記号」の連関として”我々”の言語体系が機能している」
p104「物と物の間の「差異」を指し示す「交換価値」の連関として”我々”の経済システムが機能している」
p104「価値=記号」には、当然のことながら、絶対的な実態はないはず」
p104「「記号」の背後に”実体”を見ようとして、イデオロギーに陥る」
p122「我々の日常生活のさまざまな場面にいつのまにか入り込み、我々を「内」から支配している”小さな権力”をめぐる問題」-『1Q84』のリトル・ピープル 「大量消費社会への移行が顕著になった70年代」
p122「狂気の囲い込み、医療による身体管理、セクシュアリティにおける正常/異常の区別など、フーコーが「生・権力 bio-pouvoir」と呼んでいる問題」
p150「人身も恒常的に<過剰>であるが、他者の殺戮ではなく、自己そのものの儀式的破壊こそ最高の交換形態」
p168「「差異」を生み出し続けながら、破局を「遅延」化させる、自転車操業的な自己運動こそが、デリダが「差延」」
p175「しかし、まだインターネットや携帯電話という便利なメディアがなく、ワープロさえまだそれほど普及していなかった80年代前半には、お役所・会社的な紋切型の表現を一生懸命身に付けてきた”パラノな大人”には思いつけない、パロディー的表現を次々と紡ぎ出し、雑誌などに積極的に投稿する「スキゾ・キッズ」たちの潜在的可能性に期待できたのである」
p176「スピーチやディベートの技術に重きを置くアメリカ式の「対話能力」重視の教育では、人間の内に”普遍的”に宿っているはずの思考能力にもとづいて論理的に語ることができる「主体」を養成することが目指されてきた」
p218「一ヶ所に定着して安定した職業生活を送るパラノ人間に対する評価が再上昇」
p220「(正しくメッセージを送受信できない)自分の立ち位置について不安を覚える。しかし苛立って、”オリジナルの意味”を再現前化=表象できるような純粋なコミュニケーションを求めると、余計に多くの誤配を引き起こし、悪循環にはまっていく。」
p221「「社会全体」を見渡す視点を取ることは困難」
p222「「郵便的不安」は詳しく言うと、「大きな物語」としての「歴史histoire」が「終焉」し、さまざまなタイプの物語が-相互の脈略もはっきりしないまま-散乱するようになったポストモダン状況においては、各人が自分の歩んでいる方向=意味(sens)を指し示してくれる「物語histoire」の確かさについて確信を持ちきれず、アイデンティティの不安を抱えている」
p223「小さな物語の中で自己満足するようになる”人々”の在り方を「動物化」」「「人間」としての共通性を失っている」
p225「そこでやりとりされている「意味」はかえって分散化し、話が通じていないのではないかという”不安”が広がっているという現状認識」
p245「自分自身のそれを含めて、あらゆる常識を疑わざるを得なかった、深い懐疑のまなざしを学ぶべきだろう」

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