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2010/07/19

『ミーツへの道』/江弘毅

4860112059 ミーツへの道 「街的雑誌」の時代
江 弘毅
本の雑誌社  2010-06-02

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 『ミーツ』が神戸新聞社生まれということも知りませんでした。僕は1995年に大阪に出てきたんですが、『ミーツ』が市民権を得だしたのは1990年代からと判って、意外と最近のことなんだなあと思いました。自分が大阪に来た時既にあったものは、大阪の人なら誰でも知っているものだという思いこみがあったので、『ミーツ』に関しては、「大阪のちょっと感度の高い人なら誰でも知ってる雑誌」と思ってたのが、実はまさに浸透現在進行形の時代に自分もいたんだなあと思った。歴史は正しく知らなければほんとにわからない。
 その『ミーツ』と神戸新聞社との確執が赤裸々に語られて興味がぐいぐいそっちに引っ張られるけれど、敢えて言えば、子会社である以上当たり前のことのような気もする。とは言え、あの『ミーツ』の編集長としての感性を残したまま、財務諸表や費用対効果やキャッシュフローやと行った会議に出られるというのはかなりのキャパシティだと僕でもわかるし、そういう懐を持った仕事のできる男になりたいと思う。

 『ミーツ』を知ってる人なら誰が読んでも絶対に面白いと思う。読んで損はないし、自分の仕事のスタンスに少なからず影響を与える。『ミーツ』を知らない人にも読んでほしいなと思うし、「あの『ミーツ』の」という関西人特有の権威付けから自由に読める人がどんな感想を持つのかにも興味があるのでぜひ関西人ではない人の感想を読んでみたいです。

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『そしてカバたちはタンクで茹で死に』/ジャック・ケルアック&ウィリアム・バロウズ

4309205399 そしてカバたちはタンクで茹で死に
ジャック・ケルアック ウィリアム・バロウズ 山形 浩生
河出書房新社  2010-05-15

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 ジャック・ケルアックは『オン・ザ・ロード』を、ウィリアム・バロウズは『裸のランチ』を、それぞれ1冊読んだことがあるだけで、二人がビートジェネレーションであり熱狂的に支持された作家という程度の知識しか持ってないまま読んでみた。『オン・ザ・ロード』も『裸のランチ』も面白かったのは面白かったんだけど、僕は「破滅的な何かを漂わせる魅力ってそんなに魅力か?」と文句をつけたがる性分になっていたので、掘り下げて何冊か読んでみようとはしなかった。ドラッグにせよ精神異常性にせよセックスにせよ、生まれたときから多少なりとも命に関わる病気持って生まれた生い立ちの人間に言わせてもらうと「バカバカしい」ということになっちゃう(もっとも、両親がうまくやってくれたおかげで早くに治り本人は病気で不自由した記憶はないけれど)。精神異常性も自分で好き好んで破滅的な生活に追い込んで陥る分はとくに「バカバカしい」と思ってた。1972年生まれでバブルを越えて青春を1990年代前半に過ごした僕は、問答無用の無茶苦茶さならもっと酷いものを見てきたし、そういう無茶苦茶さに与してもほんとにバカバカしいだけで何にもならんというのも実感的に判ってて、ビートジェネレーションも「今更何なん?」と思っていた。
 本著の後書を読んで、ビートジェネレーションが狭い人間関係の中にあって、その引き金となった事件がカー・カマラー事件ということを学んだ。ルシアン・カーが、デビット・イームス・カマラーを殺害した事件で、本著はその事件をベースにして、知人であるケルアックとバロウズが章ごとに書き繋いだ作品だ。カマラーはゲイで、25歳のときに知り合った11歳のルシアンに入れあげる。そして8年間の末、ルシアンに殺される。性的関係はなかったとされる。僕はゲイではないのでその点だけはわからないけれど、カマラーのことを「煩わしいが利用したい部分もあり頼らざるを得ない部分もある」と見なさざるを得ないルシアンの困惑はちょっと判らないでもない。そこにゲイという要素が絡めば一層ややこしくなるのは自明だろう。でも、これって、言ってみれば普通、自分の親に対して誰しもが抱く感情だと思う。その依存の対象が自分の親ではなく、性的に倒錯した男性だったところに、ルシアンの中でも無理が溜まっていったんだと思う。そして、ビート・ジェネレーションの一味は、バイセクシャルが珍しいことではない-というより、「それがどうしたの?こんなの普通のことだよ」と言いたがってるように見える。
 1972年に生まれて現代を生きている僕にしたら、「そんなに壊れたいんならさっさと壊れてしまえばいいじゃん」と唾を吐きかけたくなる。その倒錯した破滅的な魅力というのはもちろん判らなくはないんだけど、壊れたがってるくせにうじうじ生きているようなヤツが僕はいちばんしょうもないと思うのだ。何かを壊したいと思ってるならまだいいけど。後書にも書かれていたけれど、この本の一番の無理は、「ストーリーの起点がカー・カマラー事件」であることだ。始まりを終わりに持って来ざるを得ないプロット。それって何のための始まりなの?とプロットにさえ突っ込みたくなる。
 僕は既に、雰囲気だけで耽美できるような時代も頃合も年齢も通り過ぎて今を生きているので、このビートジェネレーションの時代の魅力を今更学んで耽ることはできないと思う。自分が実際に生きてきた時代の懐古なら出来ると思うけど、その魅力の根本が全く自分の性に合わない時代の魅力にはもはや理解を示せない。『そしてカバたちはタンクで茹で死に』というタイトルの元になった場面が作中に出てくるけれど、「カバたちってのはつまりビートジェネレーションの仲間全体だろう?」と邪推しても、「ただのラジオ放送からおもしろいと思って引っ張っただけ」と言い返すくらいだろうし。

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2010/07/10

『これからの「正義」の話をしよう-いまを生き延びるための哲学』/マイケル・サンデル

4152091312 これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル Michael J. Sandel 鬼澤 忍
早川書房  2010-05-22

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断片的に語りすぎる。それは世界中どこでも共通の言論の癖なのかも知れないけど、この日本では間違いなくそれが当てはまっていると思う。例えば、本著のp231、「実力主義の社会につきものの独善的な前提、すまり成功は美徳がもたらす栄誉であり、金持ちが金持ちなのは貧乏人よりもそれに値するからだという前提を くつがえす」「職やチャンスを得るのは、それに値する人だけだという信念・・・は社会の 連帯を妨げる・・・成功を自分の手柄と考えるようになると、遅れを取った人びとに責任を感じなくなるからだ」あたりを日本の保守支持層や高齢層あたりが読めば、「だから過去の日本に存在していた、過度の成果主義を抑えた社会に回帰すべきだ」と言い募るに違いない。けれど、本著がここで語っているのはそういう文脈ではない。「道徳的功績」を巡る考察があって初めて理解できる文脈だ。過去に非成果主義的な社会があり、そこに成果主義を持ち込んだ現状で、単に非成果主義的社会の長所と見える側面だけを求めて回帰するだけでは、そこにもまた嫌気がさして逆戻りするだけだ。

本著で語られているように、日本では「正義」という概念は、避けて通ってきていたと思われる。もしくは、「すべてから超越してどこかに存在しているもの」という感覚か、または「天皇が判断するもの」「将軍様が判断するもの」という、ある種の特権が、一般人に下ろしてくる判断という、トップダウンの思想だ。「すべてから超越してどこかに存在しているもの」という感覚は、もしかすると本著で述べられている正義に対する第3の考え方に似ているのかも知れない。ただ違うのは、アメリカでは正義と政治は切り離せないものとして考えられていることだ。日本では仮に正義が第3の考え方的なものだったとしても、それを政治に繋げる発想には縁遠いような気がしてならない。そして、正義や道徳から切り離して、まったくもって「リベラル」な環境下で、”競争していればいいものが生まれる”というあまりに純粋無垢な幼稚な考え方でここまでやってきたのかというのがよくわかる。”それで何の文句がある?”という言説に明快にカウンターを打てないというだけでずるずるここまで来てしまった罪は、いたるところで引き受けられなければいけないと思う。

 

p13「われわれは幸福と経済的繁栄を同一視しがちだが、幸福とは社会的福利の非経済的な面をも含むより幅の広い概念である」
p27「2008年と2009年の壊滅的な損失の原因が圧倒的な経済の力にあるとすれば、それ以前の莫大な利益もそうした力のおかげだと言えるのではないだろうか」
p28「アメリカの一流企業のCEOが平均して年間1330万ドルを手にしている・・・ヨーロッパのCEOは660万ドル、日本のCEOは150万ドル」「こうした格差は、経営者が仕事に向ける努力や能力とは無関係な要因を反映しているのだろうか」
p29「価値あるものの分配にアプローチする三つの観点…幸福、自由、美徳」「これらの理念はそれぞろ、正義について異なる考え方を示している」
p56「オメラスから歩み去る人々」
p71「ある快楽がほかの快楽より質が高いとか、価値があるとか、高貴だとか、いったい誰に言えるだろうか?」
p126「利益という目的がこの取引の主たる要素であり、取引全体を覆い、最終的には取引を支配している」
p129「アンダーソンの議論の中心にあるのは、ものには種類があるという考え方」「金銭で買うべきものではないものがあることの説明がつく」
p134「代理母になるのを選ぶ経済的利点は明らかだが、われわれがこれを自由と呼んでいいのかどうかははっきりしない。「貧しい国々の計算ずくの政策としての-世界規模での商業的な代理出産産業の出現は、女性の体と生殖能力を道具扱いすることによって、代理出産が女性を貶めているという思いをさらに強くさせる」
p136「イマヌエル・カント(1724-1804)」
p144「自由に行動するというのは、…目的そのものを目的そのもののために選択することだ」
p150「他者を助けるという行為の動機と、義務の動機を区別している」
p153

  1. (道徳) 義務 対 傾向性
  2. (自由) 自律 対 他律
  3. (理性) 定言命法 対 仮言命法

p163「定言命法の観点からすれば、母親の気持ちを気遣って嘘をつくのは、母親を理性的な存在として尊重しているのではなく、心の安らぎのための手段として使っていることになる」
p172「合意されあれば何をしてもよいという倫理的価値観と、自律と人間の尊厳を尊重する倫理的価値観の違いを浮き彫りにしている」
…「合意」を閾値にする事件を思い起こすと、その種の裁判のやり方の倫理的背景の底が如何に浅いかが判る
p173「私の弁明はカントのものとは異なるが、彼の哲学の精神に則したもの」
p178「念入りに拵えた言い逃れは、真実を告げるという義務に敬意を払っている。だが真っ赤な嘘は違う。単純な嘘をつけば用が足りるのに、わざわざ誤解は招くが厳密には嘘ではない表現を使う人は、遠回しではあっても、道徳法則に敬意を示しているのだ」
p183「平等をめぐる議論-ジョン・ロールズ」
p191「18世紀のスコットランドの道徳哲学者デイヴィッド・ヒュームが直面したものだ」
p207「人間には努力と勤勉さの対価を得る資格があるという主張は、ほかの理由からも疑わしい」「われわれの貢献度は、少なくともある程度は…自分の功績とは言えないものできまるのである」
p208「道徳的功績を否定する」
p216「ロールズの正義論はアメリカの政治哲学がまだ生み出していない、より平等な社会を実現するための説得力ある主張を提示している」
p226「重要なのは、道徳的功績ではないのだ」
p231「分配の正義のよりどころを道徳的功績に求めないという考え方は、道徳的には魅力的だが、人びとを不安にさせる。この考えが魅力的なのは、それが実力主義の社会につきものの独善的な前提、すまり成功は美徳がもたらす栄誉であり、金持ちが金持ちなのは貧乏人よりもそれに値するからだという前提をくつがえすからだ」「職やチャンスを得るのは、それに値する人だけだという信念は根深い」「このような信念は、よく言っても一長一短、度がすぎれば社会の連帯を妨げる・・・成功を自分の手柄と考えるようになると、遅れを取った人びとに責任を感じなくなるからだ
p237「資金を確保することが入学選考に影響を及ぼすほど優先されるようになれば、大学は道を踏み外し、その存在意義である学術的・公民的善から大きく外れることになるだろう」
p250「あらゆる都市国家は、・・・善の促進という目的に邁進しなければならない」
p255「美徳を身につける第一歩は、実行することだ。それは技能を身につけるのと同じことである」
p257「絶えず道徳的に行動に励むことによって、道徳的に行動する傾向が身につく」
p260「カントからロールズに至るリベラル派の正義論の悩みの種は、目的論的構想と自由が相容れないことだ。リベラル派の正義論では、正義は適正ではなく選択にかかわる。」「人びとにみずからの役割を選ばせることだ」
p280「異議を唱えるのは、善についての考え方から正しさを導き出す正義論に対してである」「カントとロールズは…正しさは善に優先すると主張する」
p284「選択の自由は-公平な条件の下での選択の自由でさえ-正しい社会に適した基盤ではない。」「中立的な正義の原理を見つけようとする試みは、方向を誤っているように私には思える」「道徳にまつわる本質的な問いを避けて人間の権利と義務を定義するのは、つねに可能だとは限らない」
p286「アラスデア・マッキンタイア『美徳なき時代』」
p287「道徳的熟考とは、みずからの意思を実現することではなく、みずからの人生の物語を解釈することだ」「そこには選択が含まれるが、選択とはそうした解釈から生まれるもので、意思が支配する行為ではない」
p291「道徳的責任の3つのカテゴリー:

  1. 自然的義務:普遍的。合意を必要としない。
  2. 自発的義務:個別的。合意を必要とする。
  3. 連帯の義務:個別的。合意を必要としない。

p297「同類を優遇する偏見にすぎないのだろうか?そもそも国境の持つ道徳的意義はなんだろうか?」
p307「人格者であるとは、みずからの(ときにはたがいに対立する)重荷を認識して生きるということなのだ」
p311「われわれを拘束する唯一の道徳的責務をつくったのはわれわれ自身であるという契約論的な考えに対抗するための幅広い例だ」
p312「この自由の構想には欠陥があることを示そうとしている」「もう一つの争点は、正義についてどう考えるかだ」
p313「私の善について考えるには、私のアイデンティティが結び付いたコミュニティの善について考える必要があるとすれば、中立性を求めるのは間違っているかもしれない」
p314「国民の権利と義務をいかに定義するかを決めるにあたり、善良な生活をめぐって対立する考え方を度外視することはできない」「本質的道徳問題に関与しない政治をすれば、市民生活は貧弱になってしまう」
「正義をめぐる論争によって、道徳をめぐる本質的な問いに否応なく巻き込まれるとすれば、その議論をどう進めていくかが問われている。宗教戦争に移行せずに善について公に論じるのは可能だろうか?道徳により深く関与した公的言説はどんなものになるだろうか?そして、それはわれわれが慣れている種類の政治論争とどう違うだろうか?」
p321「ジョン・F・ケネディが支持し、オバマが拒否したリベラルな中立性の理想」
p323「正義と権利の議論を善良な生活の議論から切り離すのは、二つの理由で間違っている。第一に、本質的な道徳的問題を解決せずに正義と権利の問題に答えを出すのは、つねに可能だとはかぎらない。第二に、たとえそれが可能なときでも、望ましくないかもしれない」
p331「同性婚論争の真の争点は選択の自由ではなく、同性婚が名誉とコミュニティの承認に値するかどうか-つまり、結婚という社会制度の目的を果たせるかどうか」
p334「われわれは正義に対する3つの考え方を探ってきた」
p335「公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保障したりするだけでは、達成できない。公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはないけない」
p337「アメリカのGNPはいまや年間8000億ドルを超えている。・・・GNPはアメリカのすべてをわれわれに教えるが、アメリカ人であることを誇りに思う理由だけは、教えてくれない」
p340「市場の道徳的限界」
p344「公共の言説の貧困化」

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