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2010/12/30

『妻の超然』/絲山秋子

4104669040 妻の超然
絲山 秋子
新潮社  2010-09

by G-Tools

 文麿は他の女のところに出かけていっているようである。理津子は確認はしていないがそれを事実としていて、だからと言って事を動かそうとは思わない。曰く、「超然としている」。

 理津子は文麿の行動そのものに対して直接的に文麿に何かを言ったりはしない。それを以て理津子は自分を「超然」だとしていた訳だけど、それは「見て見ぬ振り」とそう変わらないものだった。それに、理津子は文麿の「行動」に対しては目を向けていたけれど、文麿の「考え」には全然目を向けていなかった。彼が何を考えているのか、考えたことがあるのか。あるとき理津子はそう自問する。そして、自分がやっていたことは「超然」ではなく「怠慢」だと気づくのだ。
 その過程には、「よその女の家に行ってしまうのは、そっちの方が楽だからではないだろうか。」という一節がある。そして理津子は、「そんなこと、断じて認めるわけにはいかないが。」とここだけは「超然」としていない。やっぱり理津子は、文麿にはまず理津子という図式が必要なのだ。だから「私はまだ一度も文麿を捨てたことがない」のだ。
 だから、捨ててしまえる人は偉いと思う。それは自分の変化を受けいれていることだと思うから。でも偉さはそこまでなら半分で、相手の変化にもちゃんと目をこらしていたのだろうか?それを受け入れているのだろうか?そこから逃げるように、自分も変化しただけではないのだろうか?それでは結局、「見て見ぬ振り」と同じなのではないか?自分が「超然」のようが「怠惰」に陥ってしまった理由は、実は自分が作り出していたものではないのか?

 僕はこの話を、二つの読み方をほとんどオートマチックにしてしまっていて、ひとつは文麿の立場、ひとつは理津子の立場。文麿の立場というのは、「誰かの許しに甘えて生きている自分」、理津子の立場というのは、「怠慢な自分」だ。どちらの自分もいることは認めざるを得ないと思う。もちろん、そういう自分を出さないように日々努力はしているつもりだけど、どうしても文麿だったり理津子だったりしてしまう、それもどうしようもなくてそうなってしまう毎日が続くときも、言い訳ではなくて実際にある。そんなとき、理津子が忘年会から酔っぱらって帰ってきて、眠れているのに眠れないといって傍で寝れば眠れるということを知ってて寝かせてあげて「文麿がしあわせで嬉しかった」と感じる、その心ひとつに救われるし救えるのだ。それこそが「超然」なんじゃないだろうか。そういう「超然」を身につけることができたり、救われたりすることが、僕にもあるだろうか?

 途中、理津子のストーカーの話が出てくる。親友ののーちゃんに相談すると、「この手紙をそのストーカーに渡せ」と封された封筒を渡される。理津子は言われる通り、ストーカーにその手紙を手渡すと、それきりストーカーは現れなくなる。中身がどんなものだったのかは最後まで明かされなくて、僕はその内容をうまく想像することができない。のーちゃんは「人間扱いしてやっただけ」と言っていて、これはたぶん、「見て見ぬ振り」をしていた理津子の文麿に対する態度と遂になっているのだとは思う。 

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