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2011/01/30

『君が降る日』/島本理生

4344016564 君が降る日
島本 理生
幻冬舎  2009-03

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暗示的。まったく相変わらず自分の「本を選び取る才能」に惚れ惚れしてしまう。

ここ最近読んだ本の「暗示」は、過去の出来事の意味や扱い方の暗示で、この『君が降る日』は今これからの暗示だった。明確な節目なんてある訳ではなく、今が節目付近という訳でもなくてとうに過ぎ去っているのだけど、この暗示を受け取るタイミングとしてはベストだったと思う。

僕が今まで「やってみるんだ」と決めたことは、何一つとしてやり遂げることができなかった。「やるべきことなんだ」と認識したことは、ちゃんと結果を出してきたと思うけど、「これは難しいこと。でもやってみるんだ」とチャレンジを決めたことは、やっぱり難しくて、やり遂げることができたことはない。そしてまた今、僕は「やってみるんだ」と思えたことが胸にある。今までやり遂げられなかった数々は、だからと言って無駄になんかなっていない。無口な情熱として僕の中に折り重なって宿り、それが今度の「やってみるんだ」を後押しする。大事にしたい分だけ、不安の種をいくつも見つけ出してしまえるけれど、それでも「やってみるんだ」と思っている。

表題の『君が降る日』は、恋人を亡くすというモチーフ。『もしもし下北沢』は父親を亡くすというモチーフだったけど、この二作はそこから回復するためには「道のり」が必要、と言ってる点で共通してる。言うまでもないことなんだけど、意外と忘れがちになる。特にせっかちな僕は。いつかは必ず回復することが分かっていても、回復してない間はそんなこと信じることができない。ただ、その間、自分がやりたいと思ったことや、流れが生み出してくれた行動が、いったいどういう意味なのか、本当のところはいつも後から判る。でもそれでよいのだと思う。

でも今回暗示的だったのは『君が降る日』ではなく、『野ばら』。表題作ではなくて、いちばん最後に収録されている作品に痺れてしまうこのパターン、『袋小路の男』と同じで奇妙でなんなんだろう?ほんと。暗示的というか、自分が挑もうとしている道の険しさを再認識させられるような。でも、こう書いちゃうとあまりにシリアスだけど、そんなにシリアスじゃないし、シリアスじゃ余計ダメだよね、というのもちゃんとわかっている。願わくば、そこに誤解が生まれないように、自分自身ではどうにも解決しようのない類の誤解が生まれないように。

もう一作、『冬の動物園』は、主人公の美穂のお母さんの最後の一言、母親らしさでもあると思うけど、本気でそう言ってるようでもあって、本気でそう言ってるようなところが、僕の母親にそっくりで思わず笑ってしまった。 

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2011/01/23

『ヘヴン』/川上未映子

4062157721 ヘヴン
川上 未映子
講談社  2009-09-02

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初「川上未映子」。

どうして女性というのは、自分は忘れられたくないのだろう。自分のことを覚えていてほしいのだろう。一般的には男のほうが、いつまでも過去を覚えていると非難めいて言われるのに。でもその疑問の答えは常に出ている。女性は、自分以外はすべて他人なのだ。

読み終えて思ったのは、主人公の「僕」と、コジマを入れ替えて書いてほしかったなということ。入れ替えるってのは、主人公を女の子で、コジマを男の子で書いてほしかった。コジマを主人公にするって意味じゃなくて。川上未映子が女性であるだけに、主人公を男性ではなく女性にしてほしかった。

読み終えてなんでそんなことを思ったかというと、途中でひとつだけ違和感を覚えたところがあったから。それは、「僕」が斜視は手術で簡単に治るんだということを話した際のコジマの振る舞いに始まる。男性はどうだとか女性はどうだとかの決めつけはあんまり褒められたものではないけれど、「しるし」を大事にするコジマの気持ちというのは僕にはとても分かりやすく「女性」だった。シンボルに拘る、シンボルを大事にする女性。それに対して「僕」はそこには本質はないと感じていて、だからラストで、「誰に伝えることも、誰に知ってもらうこともできない、それはただの美しさだった」と嘆息する。でも「僕」のその本質感を、彼を苛めていた百瀬の「斜視が理由なんかじゃないんだよ」という嘯きが補強している面もあり、それがコジマに微かに伝わってしまっている感もある。

だから、主人公を「私」で書いてほしかった。主人公が「私」だったとき、こういう普遍的なラストを作り上げることができただろうか?コジマはくっきりと強く、自分自身の理論を持って、そして「しるし」に縋りながら、強烈な力を発揮する。それが、男の子に出来ただろうか?自分以外はすべて他人、お互いの立場を入れ替えることなど露程も頭になく、あなたはあなたわたしはわたしを貫き通す女の子と、より一般化しようとする男の子。このループを揺り動かすような構造を見てみたかった気がする。

コジマは言う。「わたしが、お母さんをぜったいに許せないのは」「お父さんを」「最後まで、可哀想だって思い続けなかったことよ」。女性は、続かないことを許さない。男性は、そこに孤独が横たわるとしても前に進もうとする。誰とも分かり合えない悲しみを、あらかじめ胸に抱いている。  

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p87「太陽のおまじない」
p115「僕はそのふちに立たされてしまうといつも絶望的な気持ちになった」
p136「自分の手だけは汚れていないって思い込んでるかもしれないけど、」
p151「自殺という言葉が連れてくるのは「どこかの、知らない誰かの死にかた」以上のものではなかった。けれど」
p170「意味なんてなにもないよ。みんなただ、したいことをやってるだけなんじゃないの」
p175「『自分がされたらいやなことは、他人にしてはいけません』っていうのはあれ、インチキだよ」
p193「自分がなにについてどう考えてゆくのが正しい筋なのかがわからなくなっていった。」
p203「最後まで、可哀想だって思いつづけなかったことよ」
p210「返事がないのに手紙をつづけて書いてそれをだすのはこわいことだった」
p224「僕がしつこく手紙を書いたりしたから、こんなことが起きてしまったのだ」
p234「わたしたちは従ってるんじゃないの。受け入れてるんだよ」
p235「想像力もなにも必要じゃない、ただここにある事実なのよ」
p241「僕は自分の本当の母親のことも話した」
p248「そしてどこにも立っていなかった。音をたてて涙はこぼれつづけていた」

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2011/01/22

『もしもし下北沢』/よしもとばなな

4620107573 もしもし下北沢
よしもと ばなな
毎日新聞社  2010-09-25

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ほんと「さすが」としか言いようがありません。ここしばらく女性作家の恋愛ものを大量に浴びるように読みたいというテンションが続いてて、先週あたりにジュンク堂ヒルトンプラザ店行って目についたものを買い込んだんですが、その時、「最後に『もしもし下北沢』を読む。たぶん、これ一冊読んだらそれで済んじゃうけど、それもなんなので、いろんなのを読んで、それからこれを読む。」と、そういう方針だった。で、実際そうだった。あまりにメジャーであまりに当たり前に良い作品だけ読むことになっちゃって凝り固まるのはいけないんだろうなあと思っていたんだけど、これだけでいいんだからしょうがないじゃないか、読み終えてそう思った。やっぱりよしもとばななの小説はしっくり来る。なのになんで本作を今まで読んでなかったのか?というと、地名の印象で引っ張るっていうのがあんまり好きじゃないから(笑)。「そんな、下北沢なんかに住めりゃそりゃいいじゃん!そんなんで差異をつくんのって、ずるい!」と思う訳です(笑)。でも、いたずらに下北沢という地名のイメージで押してくるような内容では全然なかった。そこも「さすが」でした。

何が違うって、頭に残る映像が違う。映像というかイメージというか。たいていの作品は、「目に見える」景色がイメージとして描写されていたり、目に見えないものを何かの雰囲気や形を借りて描写したりしている訳だけど、読んでるときは作者が表そうとしてるものが喚起できても、読後にそのイメージはほとんど残ってなくて、粗筋だけが残る。でも、自分が好きだと思う作家の小説は決まって「作者が作品の中で言おうとしたこと」が、(それを僕が正しく読み取れたかどうかは別問題として)イメージとして頭の中に胸の中に心の中に残るのだ。よしもとばななは正にそう。どんな粗筋だったかももちろん残るけど、小説の中に宿っているよしもとばななの人生におけるフィロソフィーとか想いとかそういうのが「イメージ」としてくっきり残るんです。それは言葉にはできないけれど、自分の胸の中では「ああ、あれはこういうイメージの小説だったなあ」というのが、引出の中に大切にストックされる。そういうイメージとともにストックされた作品がたくさんあって、今の自分が、今の自分の考え方や哲学や日々生きるための知恵や工夫やスタンスや強さみたいなのが出来てるんだと思う。

最初に書いておくと、ラストの山崎さんとの下りは、中年男性の僕にとっては、ありきたりの展開過ぎて、つまらなかったというか、なんか予想外の展開で驚かせてほしかったというか、そういう不満はあります。「”品行方正”という意味で正しいということが何か、大人として何かはちゃんとわかっております、判っているということを事前にお伝えしておいて、それでもそれを破ってでも僕はこうしたいんです」式の口説き方に、とりわけ若い女性が弱いということは悔しいくらいわかる訳で、(もちろん山崎さんとよっちゃんの間柄はそんなちゃちいもんではないけれど)その筋に乗っかっちゃったのが少々残念なとこではあります。でもそれを差し引いても、この小説が持つ「切迫感」みたいなのは痛切で痛烈で、切迫感を息切れさせないまま、きちんとある方向に誘ってくれる。そこが「さすが」と賛辞したくなる所以。

「お父さんが知らない女性と心中してしまった」という帯の粗筋だけでは、それがどういうことなのかは半分も書けてないけど、とにかくとんでもなく重たい辛い悲しい出来事があって、残された妻・娘がどんなふうに生きていくかが、基本的に娘・よっちゃんの視点で書かれてる。よっちゃんはひどく丁寧に物事を考え、考え抜いて、行ったり戻ったりを繰り返す。そして、何度も何度も「今はそのときではない」というスタンスが出てくる。「今はそのときではない」。このスタンスは、よしもとばななの小説では結構見かける気がするし、よしもとばななの小説以外ではあんまり見かけないような気がする。「今はそのときではない」。この考え方、哲学、はものすごい重要だと思ってる。今までの自分は常に獣のような、「やれるんなら今やろう」的な生き方をしてきたように錯覚してたけど、「今はそのときではない」こう考えて自重できる哲学をとても大事にして生きてきてたんだなと思う。焦らない、焦らない。いずれ時が来る。そのときはそのときちゃんとわかる。それまでちゃんと待つんだ。自分の周りの環境がそれを待ってくれなかったらそれはそれまでのことなんだ。『もしもし下北沢』が改めて僕に提示してくれたのはそういうことだった。とんでもなく重たい辛い悲しい出来事があったとき、よっちゃんのように行きつ戻りつ、かかるだけの時間をかけて立ち戻っていくのが自然なんだよと。

その人の言葉の、どこに真実があって、どこかに嘘があるのか?誰の言ってる親切が、優しさが、本当の気持ちなのか?欲の裏返しではないのか?自分の弱さが、その裏返しに絡め取られてすり減らしてしまっていないか?間違えたりはしない。

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p4「うすうすわかっていることをだれかがはっきりと言葉にしてくれると、心はこんなに安らぐんだ、そう思った」ばななさん、あなただよそれは!
p15「私も意味がないことをしたい。若いときに戻れるとは思わないけど」
p20「『大人になったら、きちんとしていればなんとかなる』っていう教えを私にたたきこんだこの世の全てに、今はただひたすらに反抗したい」
p59「でもこういう割り切れない時期があるのって、大事なことかもね」
p60「精神的な飢えが根底にあるのに、他のことでその瞬間だけ取り繕っているんだから」
p68「前向きすぎず、後ろ向きすぎないその態度を見て、なんといい女だろうと思ったのだ」
p91「まだ言うな、そして言わないことは裏切りではない」
p106「なにもなかったように暮らしていけたら、それはおかしいよ。だからもし僕がよっちゃんだっ たら、同じように思うと思うんだ。なにかしたい、なにかしなくちゃって。でも、パパが帰ってくるわけじゃないからなあ。そういう気持ちを持ったまま、じっ と今にも腐りそうな荒れた気持ちで、生きていくしかないんじゃないかなあ」
p115「光だけじゃだめなの?日常の温かさだけじゃ生きていけないの?」
p139「そうか・・・時間はたっているんだ」
p156「失っていく、もう戻らない。/そのかわりに、私はこれまで知らなかった、雨の茶沢通りの匂いを知っている」
p158「私が彼を見る目はちょうど、奥さんがいて、でも大好きな見た目の若い彼女を見る男のような、奇妙に切ないものだった」
p169「諏方神社だよ。有名なおせんべいやさんの近くの・・・」
p188「そう、こわいことは、お父さんがさまよっていることだけではなかった。お母さんが心の中でお父さんを完全に捨ててしまうこと、それがいちばんこわかったのだ」
p193「多分もう会うことのない人、でも生涯わかちがたく結ばれてしまった人」
p202「この膜があるままに行動すると、後で必ずしっぺ返しが来ると、私の本能は語っていた。どうしてなんだろう、でもそうだったのだ。」
p208「これが若さというものなのだと実感もしていた。経験していなことをひとつひとつクリアしていく歓び」
p211「さよなら、私のごまかしの恋。今でなかったらきっとほんとうに夢中になれた恋」
p212「数をこなして慣れているから、女性はこういうとき追いつめないほうがいいとわかっているだ。/くすんだような、悔しいような、それは決して嬉しい気持ちではなかった」
p219「よっちゃんの好きにするといいよ、それはいやではないし、反対しない。ただ、私は全然行きたくない」これが”社会”では通じない
p219「こんなふうに捨てられるってどういうことかわかる?世間体を考えてもすごくみじめだけれど、そんなことじゃない」
p228「さすがお母さん、どうして「探偵物語」を観ていたのだろう」
p245「実らないものには実らないものだけが持つ良さがあった」
p252「空っぽにしてあげたい、そう思わずにいられない」
p259「でも新谷くんと行けるところはどこにもない、気持ちよさの果てで行き止まりだ」

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2011/01/15

『窓の魚』/西加奈子

4101349568 窓の魚 (新潮文庫)
西 加奈子
新潮社  2010-12

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 ナツ、トウヤマ、ハルナ、アキオの男二人女二人が温泉旅行に出かける。そこでの四者四様の胸の内と、翌朝残される一体の死体。

 西加奈子は『さくら』を読んで以来、ちょくちょく読んでる。ここ最近、女性作家の恋愛小説を固め読みしようと、ジュンク堂ヒルトンプラザウェストで目に留まった文庫本を買ってきたんだけど、僕のイメージしてた西加奈子とはだいぶ違ってた。実際、それまでの作風とは違う境地を拓こうとしたもの、らしい。

 四人の男女の気持ちが交錯して描かれる中に、ちょっとオカルトな要素が入ってて、そのあたりが「恋」の不可思議さの空気とつながると思うんだけど、今の僕にはちょっと入ってこなかった。空気感で「恋」を語られるものよりは、みっしり真正面から描かれるものを望んでるみたい。前に読んだ絲山秋子のほうが今の好みかな。西加奈子なら、やっぱり『さくら』のような暖かみがほしい。 

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2011/01/07

『袋小路の男』/絲山秋子

袋小路の男 (講談社文庫)
袋小路の男 (講談社文庫) 絲山 秋子

講談社  2007-11-15
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 『妻の超然』に続いて絲山秋子。文庫が出ていると知って早速買ってみた。「袋小路」と言われると『デッドエンドの想い出』、足掛け10年の恋と言われると最近読んだ『寝ても覚めても』を思い出す。日向子が袋小路の家に住む小田切と出会ったのは高校一年。それから12年、指一本触れることないまま、二人は連絡を取り合い、時に会ったりする。どうして小田切は日向子に対して踏み込まないのか?それを小田切側の視点も踏まえて三人称で描かれる『小田切孝の言い分』。小田切がどうして日向子に手を出そうとしないのか、関係を前に進めようとしないのか、男の僕にはわかるようなわからないような、醍醐味ともいえるもどかしさが続く。けれども、「袋小路」の言葉の持つ甘美さは『デッドエンドの想い出』の方が染み渡っていたし、足掛け10年の恋の見えていないさ加減(または見ている加減)は『寝 ても覚めても』のほうが鮮烈で味わい深かった。

 しかし出会いはいつでも思わぬところから飛び出してくる。僕に取っては三作目の『アーリオ オーリオ』がこの上なかった。釘づけになって一気読みしたといって差し支えない。

 38歳の哲と、14歳の姪美由。ケータイメールではなく、リアルタイムではない手紙でのやりとり。哲の過去の恋愛と、14歳の美由にさえ悟られた自分の性分。それは自分が聞く耳を持たないことと、未来について話したがらないこと。見たいのは光っている天体ではなくダークマター。哲とのやり取りのなかで美由は自分だけの新しい世界を作り始め、哲はそれを見ても自分の変わらなさ変えられなさを変えられるなんて思いもしない、諦めている。

 なぜか?終わりを心底怖がっているからに決まっているじゃないか。なぜそれがわからないんだ。終わりと睨めっこして明日を乗り越えるなんて芸当、到底出来ない。だから未来を語らない。若い美由には掃いて捨てるほどの先があり未来があり当人はそれを未来だと思っていない、高校受験と同じくらいの扱いだ。けれども哲は既にほっそりとした恋人と一度その「未来」を潜ってきていて絶望している。
 いや、それは年の問題ではなかった。小田切も、たかが2歳の歳の差でも未来を語らなかったじゃないか。

 なぜか?終わりを心底怖がっているからに決まっているじゃないか。なぜそれがわからないんだ。

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2011/01/05

『現代思想2011年1月号 特集=Googleの思想』/青土社

4791712218 現代思想2011年1月号 特集=Googleの思想
青土社  2010-12-27

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 とりあえずメモ。日本人とフランス人だとこんなに切れ味がやっぱり違うのか。同じ清濁併せ飲むスタンスでも、フランス人はかなりフラットだけど、日本人は「ほんとはキライだけど無理してフラットしてます」という空気漂う。

 最も興味あったのはグーグルのデザイン責任者ダグ・ボウマンの退社の話。
 Googleは、「例えば検索結果のページに使われている水色は、~考えうる限りの微妙に異なる水色のパターンを用意しておき、ユーザーに対してランダムに表示する。~表示した色の違いによってリンクのクリックが多かったのか少なかったのかといった変化を統計的に算出することができます。そして、最終的にクリック率が高かった色が自動的に採用されるメカニズム」になっていて、ボウマンは「これはデザインじゃない」とブログに書いたという話。ここから「デザイン」を突き詰める展開にしてほしかった。

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p55「「非物質的なもの」の汚名を着せられた者たち~一つの言明、一つの野心~それは二つの信仰表明であり、その色合いはまさしくきわめて「アメリカ人」的
p67「よりうまく自分自身のイメージにわれわれを送付するという目的ゆえに、おそらくは怠惰から」
p58「Googleは、各人の財布よりもはるかに各人の生きた知識と自発的改訂(クリティーク)に胡坐を書いた貢献型経済の権化の数々の中で、最もブリリアントなそれである」
p66「ボウマンがブログで吐露したのは、「こういったモノの作り方を実現できるエンジニア集団と仕事ができたことは本当の素晴らしかったが、これは私にとってのデザインではない」」
p70「セマンティック・ウェブ」
p78「アンカリング」
p82「新書マップ http://shinshomap.info/」

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2011/01/03

『経済ってそういうことだったのか会議』/佐藤雅彦 竹中平蔵

4532191424 経済ってそういうことだったのか会議 (日経ビジネス人文庫)
佐藤 雅彦 竹中 平蔵
日本経済新聞社  2002-09

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佐藤雅彦氏が意外にも?普通の人が「聞きたくても聞けない」ようなとても基本的で根本的な経済に関する疑問を、竹中平蔵氏にぶつける対談集。だいたいのことろは理解できているような内容でも、それを肌感覚で実感させてくれるいい本だと思います。

ここしばらく「自分の仕事を考える3日間」にあわせて、「仕事」に関する視点で読んでいるので、本書もその視点で読んだ部分もあった。その問題意識で読むと、「雇用」に興味の中心が来る。これまで読んできた「自分の仕事を考える3日間」に関する本の趣旨は、多くが「やりたい仕事を、やりたいように、納得できるようにやるためには、少人数のチームが適している」という結論を導いている。組織が大きくなれば維持費用も高額になるし、意思決定のために大きな時間と労力を使う、等々、大きな組織には「いい仕事」をするための弊害が多い、という。

しかし本書を読むと、起業の最も評価される点は「雇用の創出」ではないかなと思う。自分の雇用は自分で作ればいい=起業ということになるかもしれないが、もちろん誰しも起業に向くわけではないので、被雇用者として生きる道を取らざるを得ない人も出てくる。そうなると、より多くの雇用を創出できる企業が、最も評価される企業ではないのか?という疑問が出てくる。そもそも、なぜ分業制を引くのかと言えば、分業することでより大きなアウトプットを残せるからだ。より大きな規模の仕事を成そうとすると、分業制は必須になる。分業制を引くことによって、雇用を創出することができる。起業することで自分の雇用は自分で確保しろというのが21世紀の日本の姿として妥当なのかどうかは、まだわからない。

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p54「みんな居心地がいいようにだけして、会社そのものが利益を上げる革新の力を弱めてしまった」
p56「「わが社」っていう意識なんですよ」
p60「実はアメリカで、その中でもデラウェア州の影響」
p63「ブリッシュかベアリッシュか」
p74「(増資とは)資本金を増やすこと」
p98「民主主義の社会において、複雑な制度は悪い制度」
p102「98年に経済が悪くなってきて、政府は景気刺激のためにさらに所得税減税をやりたくなった。ところが税金を払ってない人には減税のしようがない。だからこの前の地域振興券というのは商品券減税になるんです」
p114「オーストラリアの肉のほうがアメリカよりずいぶん安いから」
p125「ロバート・ライシュ」「フー・イズ・アス?」
p131「連邦主義、フェデラリズム」
p140「限界革命」
p160「大量生産・大量消費というのがアメリカですが、大量廃棄は日本の減少」
p186「最初にドルのばらまきをやった」
p188「どっかのODAなんかクルマに化けてて、官僚が使ってたとか言われると、ガッカリしちゃう」
p201「経常収支の赤字は通過引下げ圧力」
p208「タイは・・・よく言えばすごく自由。悪く言うとすごく無節操」
p214「ハンチントンの『文明の衝突』」
p253「住宅投資というのはGDPの7%ぐらい」
p270「アクアライン・・・は半分トンネルで半分橋という妙なつくりになってますけど、あれはセメント会社と鉄鋼会社が半分ずつお金を出したからだ」
p279「いくら有益なことでも知識のように目に見えないものならば、それを取得することは消費」
p284「えっ。起業したって」
p293「電通の「アドバタイジング」」
p300「この(ジレットの)会長にはビジネスの取捨選択には四つの基準」
p304「たとえばNECなんか、昔は要するに電電公社の御用達メーカー」
p305「かつての優良な利益をもたらす商品が、そうでなくなってくる」
p306「一般の人には、10対10の会社に見えてしまう」
p309「マハティールがクリントンを名指しで、いちゃもん付けてました」
p319「カスタマーズ・サティスファクション」
p319「寺田千代乃さんが作ったアート引越センター」
p323「企業とエグジットストラテジー」
p355「シュンペーター」「経済の実感を持ってる人に非常に受け入れられる」
p355「どの仕事にもたくさんの課題があるように、広告も一つのCMを作るのにいくつもの問題を抱えます」
p362「oikosは小さい共同体」
p367「金融システムはその典型」
p371「コンペティティブとコンピタント」
p394「地元もマクドナルドが来ることを望んでいてね」
p397「新しいものをどんどん欲しがっていて、でもなくしたものに対して、あれもあったらいいのにと思っている」
p400「もっと、あざとく言えば、マックの戦略に乗せられる人と戦略を作る人の二つ」

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