『きことわ』/朝吹真理子
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きことわ 朝吹 真理子 新潮社 2011-01-26 by G-Tools |
貴子が小学三年生で八歳、永遠子が高校一年生で十五歳。最後に会った一九八四年以来、二十五年振りに二人は再会する。二人がそれまで一緒に遊ぶ契機となっていた、葉山の別荘に買い手がつき解体される運びとなり。貴子は別荘の持ち主である春子の子、永遠子はその別荘の管理人の職を得た淑子の子。体の弱かった春子が急逝して以来、貴子の家の別荘住まいも途絶える。永遠子の母が管理人として働き始めたのは、他にいい人ができて外出する口実をつくるためと淑子は永遠子に不意に打ち明ける。淑子は二人目を身籠っていたが生活を考え産まない選択肢を取ったという。それは夫との子に間違いないと言い、もし生まれていれば貴子と同い年だったと言う…。
二十五年という時間は僕ももちろん経験している。初めて二十五年を経験したときのこともわずかばかり覚えている。会社の同僚が「私らもう半世紀も行きてんでーどう思うこれ?」というメールを送ってきて、「オマエもう五十歳か!それを言うなら四半世紀やろ!!」と散々コケにした思い出があるが、「そうは言っても、半世紀も四半世紀もさして変わらないような気がするのはなぜだろう…単に言葉に慣れてないせいだろうか?経験したのが四半世紀だけで、半世紀を経験してないからだろうか?メルクマールとして認識するものは、二十五年だろうが五十年だろうが、それこそ二十歳だろうが六十歳だろうが、長短を問わずいっしょくたになるのだろうか?」と少し逡巡したことを、本著を読んで思い出した。あの時は逡巡して終わってしまったけど、そしてまだ僕は半世紀を経験してはいないけれど、四半世紀も半世紀も一緒だというつもりはないけれどもしかしたら四半世紀で半世紀を経験していたかもしれないし、僕の記憶に今残っているあの二十五歳までの人生というのは、ほんとうの僕の二十五年の時系列事象とは別物って可能性のほうが高い。今も粛々といろんな出来事が現れ、粛々といろんな人が現れ、僕の気持ちを千々に乱れさせて過ぎていく。それは二十五年で見たことのあるようなことかもしれないし、これからの一年間は予め見たことのあるような一年間かも知れない。この一か月がまるで一年間のようだと今は感じていても、二十五年後に振り返れば一秒も思い出せないかも知れない。できることならこの今の一分一秒を、大切にしたいと思える時間の一分一秒の現在をくまなく大事にしようと過ごしてきた三十九年間だったけれど、知らず知らずのうちに伸び縮みする時間を堆積を、きちんとした寂しさを抱えて抱いてあげることができるようになったんだなと思う。ただできることなら、その「うまくやれるようになった自分」をまた再び打ち砕く程の衝撃を与えてくれないかな、とは思う。
驚いたのはラストで、永遠子が「今度遊びましょう」と、具体的な候補日を挙げて貴子にメールをしていたこと。確かに古い友人とは言え二十五年振りの人。世間では誘うときというのは、そんなにも早いタイミングで具体的な候補日を挙げるものなのかと驚いたのだ。そして逆に僕は、単なる儀礼としてその言葉を投げかけているのだという印象を与え続けてきたことが多少なりともあるのだと。
「貴子が春子に妊娠されていたとき」
「自分はうまないことを選んだ人が、なぜ春子に石を渡したのか」
「つきあいがないというのもまたひとつの人間関係のとりむすびかたであるのかもしれなかった」
「今度遊びましょう」と候補日がいくつかあげられてあった。
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