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2011/04/23

『話の終わり』/リディア・デイヴィス

話の終わり
話の終わり リディア・デイヴィス 岸本 佐知子

作品社  2010-11-30
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『話の終わり』は、筋自体は非常にシンプルな小説。三十代半ばの女性が、アメリカ西部のとある大学に教師として赴任し、その大学の学生である12歳年下の男性と出会ったその日に恋人関係になる。その恋人と終わってしまった大学教師の女性が、その数か月の出来事を小説にしようとする。

この小説をビブリオバトル@奈良県立図書情報館で紹介しようと思ったのは(実際には参加者が定員集まったので、僕は裏方に回りました)、テーマが「次・NEXT」だったんですが、この小説は主人公の女性が、ひとつの恋愛の「話の終わり」を見つけることで、「次」に進む物語だから。「次」に進むためには、自分自身の手でひとつの「終わり」を書き綴らないといけない、そんな小説だったから。

僕たちは、自分自身の言葉は自分自身のもので、自由に話し書き表していると思っている。どのくらい自由かと言えば、福島第一原発問題で、「”想定外””想定外”なんて後から言うなんて信じられませんよねえー”想定外”なんてあったらいけないことなんですからー」なんて、反原発集会に参加した後、連れだってそう話すおばちゃんが、その一方で国民年金の第3号被保険者救済問題に関しては、「あんなん、お役所がゆってくれな気ぃつく訳ないやんねえ、私らのせいとちゃうわ、ややこしいからあかんねん」って言ってしまうくらい、自由だ。

ところが、言葉-言説は、全然自由でもなんでもなく、権力によって支配続けられているという考え方や、言葉-言説は、全然自由でもなんでもなく、オリジナルのものなど何一つ存在しない、という考え方がある。権力によって支配続けられているというのは、言葉は知識であり、知識の伝達には指令がついて回る。そして言葉を使うとき、僕たちはその権力に従っている。だから、言説をつくるということは、その権力を維持することに、僕たちから進んで加担しているだということになる。その権力は、何を表現するかだけではなく、何かを排除し、何かを抑圧することを内包している。だから、言説をつくるというのは、それだけで、排除と抑圧を行う権力をより強固にする参加者になっているのだと。正確ではないけれど、フーコーが「ディスクール」という言葉でこういうことを言っている。

もうひとつ、オリジナルのものなど何一つ存在しない、というのは、僕たちが言葉を使うときは必ず誰かから「学んだ」言葉であって、自分の中で生み出した言葉などない、ということは、その言葉から成り立つ言説も同じことが言え、どのような考え方も言説も、まったくのオリジナルなど存在しないということになる。僕たちが言葉を使ってやっているのは、誰かに「伝える」ということですらなく、誰かから受け取ったものを違う誰かに「パス」しているだけ。自分というフィルターを通して変容させている、というところに意味を付けるのさえ戸惑うくらい。これまた正確ではないけれど、デリダが「エクリチュール」という言葉あたりでこういうことを言っている。

そして『話の終わり』に話を戻すと、主人公の女性は、彼との経緯を、さまざまな手法で思い起こし、書き記そうと試みる。書き進めてはこれでよかったのか?という彼女自身が現れたりしながら、物語が進む。そして実際、彼女は、「ディスクール」で言われるところのように、自分の小説の執筆自体が、自分の意志とは無関係に、進む方向が決まっているかのような、まるで自分の使う言葉はある「権力」によって決められているような、何を捨てるか何を省略するかも決められているかのような、そんな述懐をする:

p221「じっさい小説は、当初思っていたのとは違ったものになりつつある。いったいこれを書くうえ で、私の意思はどれくらい反映されているのだろうか。最初のうちは、どんなことも一つひとつ自分で決定していかなければならないのだと思い、あまりにも決 めることが多そうで恐れをなしていた。ところが、いざいくつかの選択肢を試してみると、他ではどうしてもうまくいかず、けっきょく一つしか選択の余地がな かった。書きたいと思ったことが書かれたがっていなかったり、たった一つの書き方だけを要請してくることもたびたびあった。」

僕たちは何かを選び、何かを選ばず、そうして決めた事柄を自分の意志で発信していると思いこんでいる。けれど、実は言葉には権力が内包されていて、そんな<自由意志の取捨選択>は思い上がりだ。そして、そこにはオリジナリティはない。そこまで考えるともう救いようがない。

だけど、主人公は、記憶や、ノートや、メモや、さまざまなものを動員しながら、彼との経緯を書き記し、小説を編み上げていく。その中で、過ぎ去ったことだからどれが正確なことなのかはわからないし、正確に書く必要があるのかもわからないし、誰かにとってはまったく違う事柄として見えてしまうかもしれないし、という葛藤を繰り返して彼女が浮き彫りにするのは、今は不在の彼、彼の不在そのもの。何を書くか、何を書かないか、何をどう書くか書かないか、というひとつひとつの判断の積み重ねが、彼女を『話の終わり』に導いていく。つまり、僕たちにはやっぱり自分自身での取捨選択という行為は残され判断があって、その判断の積み重ねが「終わり」と「次」を導いてくれる。この取捨選択という行為の中に思い違いや誤りがあるなら、それこそがオリジナルだし意味を生み出す。そうして積み上げた自分だけの思い違い、自分だけの誤りの中に真実が立ち上り、「終わり」と「次」が見えてくる。

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2011/04/20

日本経済新聞2011年04月20日朝刊 『大震災日本を立て直す 4』

野中郁次郎 一橋大学名誉教授
「日本には社会全体として傍観者的に発言することが知的であるという風潮がある。しかし、これほど『反知的』であることはない」
「中国共産党にもイデオロギーだけでなく、徹底した現実主義の側面があることを忘れてはいけない」
「現場よりも分析を重んじる米国型の経営が勢いづく中で、現実を知り抜いた人が日本企業の組織の中心に少なくなっていた」

  • 金は浮遊?
  • 自分の問題に引き付けて考えられるか、ということと、視野狭窄に陥らないようにする丁寧な慎重さの両立の実践

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