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2011/05/12

『ポータブル文学小史』/エンリーケ・ビラ=マタス

4582834450 ポータブル文学小史
エンリーケ・ビラ=マタス 木村 榮一
平凡社  2011-02-15

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 エンリーケ・ビラ=マタスは、何にも知らなかった。ただ、本屋をうろうろしてたら、現代海外文学コーナーにこの『ポータブル文学小史』があって、「なんだそれ」と思って手に取ったのだ。その、2か月くらい前のときは買わなかったけれど、ずっと気になっていたのでとうとう買ってみた。立ち読みしたときは「文学小史」の「ポータブル」ということか、と思ってたけど、実際は、「ポータブル文学」の「小史」だったのだ。

 『ポータブル文学小史』には、カフカやサリンジャー、デュシャン、ピカビア、ジャック・リゴー、ジョージア・オキーフ、ヴァルター・ベンヤミン等々、数多くの実在した芸術家・文学者が登場する、多くが秘密結社「シャンディ」のメンバーとして、「シャンディ」にとっていちばん大事なことは、「人生を重いものにしてはいけない」。「シャンデイ」のメンバーとして挙げられる数々の芸術家・文学者たちが、既成の概念やルールを破壊し、”新しい”芸術を目指したモダニストの面々であることを考えると、そのシャンディのいちばん大切なことが言わんとしていることはわかる。必要以上に深刻であってはいけない、身軽でなければならない。だから、「ポータブル文学」なのだ。

 このスタンスは、青春手前にパンクを通り抜けてきた僕たちの世代にはよくわかる。世俗の柵から解き放たれること、「責任」という卑怯な面を下げて人々を束縛するだけの常識から解き放たれること。そして人間性を回復する。
 しかし、その「解放」に、野放図なだけの奔放さを求める、人間の勝手な心性を見てとってしまうことも少なくない、”人生を重いものにしてはいけない”それが目指すところを、都合よく利用してしまう人間の性。それならば、「責任」を軽くも重くもなく「責任」として取り扱えるようになることが、本当に束縛から解き放たれることになるのではないか?どうしても、「束縛からの解放」というだけでは、何か新しいものが生み出せるとは思えない、僕には。自分自身の身勝手さ、都合よさ、なぜ身勝手になりたいのかを見つめることなしには。

 秘密結社は、自ずから崩壊に向かって進むしかない宿命を予感させる。シャンディもその例に違わず、裏切者によって秘密が秘密ではなくなる。この崩壊は、”人生を重いものにしてはいけない”という教条そのものが、”人生”に当てはめきれないことを暗示してるみたいでもあるけれど、そもそもその裏切者として登場するアレイスター・クローリーとは何者だろう?と調べてみたら、秘密結社から独立した神秘主義者だった。

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2011/05/03

『編集進化論 editするのは誰か?』/仲俣暁生+編集部

編集進化論 ─editするのは誰か? (Next Creator Book)
編集進化論 ─editするのは誰か? (Next Creator Book) 仲俣暁生

フィルムアート社  2010-09-22
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 4/23に開催されたビブリオバトルmeets奈良県立図書情報館#01で、『自分の仕事』を考える3日間お世話になった(なっている)図書情報館の乾さんが紹介されていた本。乾さんが紹介で仰っていた「日常と非日常」とかそのあたりは今までもよく馴染んできたテーマだし、面白そうなので早速手に取ってみました。

 まずそもそも、編集って何だ?編集とかディレクションとかプロジェクトとかデザインとか、対置されているのかセットなのか関連語なのかよくわからないまま「当たり前でしょ」と使われている文章にしか当たったことがなくて、編集がそもそもなんなのか分からない。それこそ当たり前、「編集」が関わってくるような職業に就いたことがないし。でも、ものの「編集」に書いている本は、これまた当たり前のように「編集」という行為の領域を、凡人の思う「書籍の編集」という、本に関わる領域からどんどんはみ出させ拡大(解釈)させてくる。だったら、「編集」って、何よ!?

 本著の中では、「編集」について、こう定義されてる:

”編集とは、一定の方針に従って素材を整理し、取捨選択し、構成し、書物などにまとめることを指します”

 なるほどね。キモは「一定の方針」。でも僕はITに携わっていて、「情報」の取り扱い方という観点で言えば、僕は「ローデータ」信者だ。raw data。生データ。ITの世界では、技術の進化(ハードディスクが3TBになったとか、ネットワークが10Gbpsになったとか)によるキャパシティの増大にあわせて、データの集約について揺れたり戻したりが続いている。データを本来のデータのまま保存すればデータ=情報の欠損はないが、莫大なキャパシティを必要とする。だから集約=サマリーして保存する。でもサマリーすると欠損する。そこにキャパシティ増大が起きる。再び、生データのまま全て保存という「無限の夢」が持ち上がる。そしてまたキャパシティを食いつぶす…。
 「編集」というのは、僕たちITの人間の領域で言う、この「サマリー」の部分が近いと思う。「一定の方針」に従って「整理・取捨選択・構成」し、「まとめる」。まさに。DWHなんかも言わば会社中のraw dataを使った経営情報への「編集」だ。

 ここでITの人間として「編集」に対する疑問が立ち上がる。「編集」は、必要か?raw dataさえ渡してくれれば、それで事足りるんじゃないのか?

 例えば新聞。行き着くところまで行っちゃったようなエッジの効いた人なんかは、判で押したように「新聞は読まない。ニュースリソースは違うところから得る」という。そこまで行かない場合、「新聞は日経+2紙読んでる」という。これはたぶん同じようなことを言っていて、つまり、「どんなフィルターかを見抜き、フィルターを外し、raw dataになるべく近づく」ということを。つまり、各新聞の「一定の方針」が邪魔であって、raw dataが欲しい、ということだ。raw dataさえあれば、後の「編集」はこっちでやりますよ、と。

 誰もが自分で編集できる訳ではないから「編集」が必要なんだ、というのは一理ありそうだけど、本著も書くように、「一億総編集者」の時代だと思う。本著がタイトルに掲げるように、「editするのは誰か?」ということになる。ここに来て、「編集者が大袈裟に”編集”と言っているけれど、”編集”ってそんなに概念的なこと?」という疑問が生まれる。
 逆に、raw dataが存在するというのがそもそも幻想だと、どんなデータもすべては誰かのフィルターを通って出てきたデータであってrawであることなどコンピュータの世界ではあっても現実の世界ではあり得ないんだよ、それは確かにそうだと思う、でももしそれを認めるなら現実の世界のすべてのデータは”編集”されていることになり、”編集”は普遍的なことになる、だったら作業としての”編集”を取りたてて”編集”として特別扱いする理由は?その”編集”をした”編集者”の力量で、区別される?

 新聞の例え、いやそれは”情報”にだけあてはまるのであって、世の中には”情報”ではない編集対象の素材もあるよ、そう言われるのはわかる。確かに、イメージとしては”編集”の本質はそこにありそうな気がする。”情報”と”データ”をイコールで結んだのは乱暴だったけれど、自分の中で整理したかったのは”加工前”と”加工後”の違い。僕たちは常に、「真実を知りたければ現場でその目で見ろ、その耳で聞け」と言われる。つまり、加工された”情報”は役に立たない、ということだ。raw dataを自分で見て、自分で”編集”しろ、と言われる。この意味で、僕たちは皆、一個の”編集者”にならなくてはならない、ということだ。

 そうしてまた一周する。「編集って何だ?」

 もう一つ。日常と非日常の線引きがあったけれど、僕は、日常と非日常の線引きが見える人というのは、日々に感謝の気持ちを失っている人に違いないと思っている。

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