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2011/08/29

『災害がほんとうに襲った時-阪神淡路大震災50日間の記録』/中井久夫

災害がほんとうに襲った時――阪神淡路大震災50日間の記録
災害がほんとうに襲った時――阪神淡路大震災50日間の記録 中井 久夫

みすず書房  2011-04-21
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 『歴史の中に見る親鸞』同様、これまた奈良県立図書情報館の乾さんのオススメで読みました。オススメというか、某日、乾さんとサシでお話させて頂く機会を得た際に、話題に挙がった一冊。乾さんがこの一冊を僕に教えてくれた理由のその一節は、

ほんとうに信頼できる人間には会う必要がない

ここだと思うのだけど、どうでしょう?

 「ほんとうに信頼できる人間には会う必要がない」、これはいろんな状況で、いろんな意味で当てはまる言葉だと思う。例えば通常の仕事の場面で。この言葉が引用された、阪神淡路大震災発生直後のような、大緊急事態の際、何事かを決定して次々実行に移さなければいけない場面、そういう場面では、通常は少しでも相手方とのコミュニケーションが、できればフェイスツーフェイスのコミュニケーションが望ましいけれど、「ほんとうに信頼できる人間には会う必要がない」。これを演繹していって、例えば、一般の会社でいちいちいちいち会議を開かなければならないのは、間違いのない意思疎通確認を重要視しているともいえるし、お互いが信用ならないからということもできる。もちろん、お互いは黙っていては信用ならないという真摯な態度で意思疎通確認を重要視しているとも言えるけど。
 更にこの言葉をもっと広く取って、旧知の仲なんかに当てはめることもできる。いちいち、同窓会とかなんとか会とかを持って維持しなければいけないのは、それだけ信頼できてないからで、ほんとうに信頼できる人間は「会う必要がない」。もう相当なピンチのときにだけ、声をかけるか、思い出すかくらいでいい。そんな関係は、確かにある。

 p22の「デブリーフィング」。ブリーフィングの反対なのだけど、日本でももちろん「反省会」というような形式で存在する。設定するスパンの問題でもあるが、「回復」をプロセスの中に組み込む思想があるかないかが大きい違いだと思う。

 p92「なかったことは事実である。そのことをわざわざ記するのは、何年か後になって、今「ユダヤ人絶滅計画はなかった」「南京大虐殺はなかった」と言い出す者がいるように、「神戸の平静は神話だった-掠奪、放火、暴行、暴利があった」と書き出す者がいるかもしれないからである」

 p94「ふだんの神戸人はどうであったか。」「あまりヤイヤイ言うな」というのが、基本的なモットー

 p95「世界的に有名な暴力組織がまっさきに救援行動を起こしたということは、とくにイギリスのジャーナリズムを面白がらせたそうだが、神戸は彼らの居住地域であり、住人として子どもを学校に通わせ、ゴルフやテニスのクラブに加入しているからには、そういうことがあっても、まあ不思議ではない」

 p97「共同体感情」

 p128「ところが、以上の悪夢は二月十三日夜、セパゾン(クロキサゾラム)二ミリを使うことによって即日消滅した」

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2011/08/21

『歴史のなかに見る親鸞』/平雅行

4831860611 歴史のなかに見る親鸞
平 雅行
法藏館  2011-04

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奈良県立図書情報館の乾さんのオススメで読みました。親鸞については通り一遍のことはもちろん知っていて、「行き着くところまで行き着いた」形の思想として「悪人正機」を捉えていたのですが、「悪人正機」が親鸞のものだとする定説がそもそも誤りでありなおかつ大変な問題を孕んだ誤りであること、そして、親鸞の「行き着くところまで行き着いた」思想は、「自然法爾消息」に、「義なきを義とする、その義すら放棄せよ」とある、その思想の到達に涙。「義なきを義とする、その義すら放棄せよ」は、言葉としては誰でも言える。誰でも書ける。だけど、その言葉にどのように到達したかが、その言葉の「生」となる。同じ言葉でも、同じ音を持って響いても、「誰」が「どのように到達したか」で全く別の言葉になる。僕たちがそれを黙読しても声に出して読んでも、親鸞の思想には届かない。そしてこの「絶対他力」を、「思想の発展と見るか、それとも挫折と考えるか」、それは読者にゆだねましょう、という著者のスタンスが、最も親鸞の到達点を深く理解している言葉だと思う。

その他、親鸞を現在の親鸞の地位に押し上げたのは覚如であるが、その著作『親鸞伝絵』は教団としての成功を意図して作為的に作り上げられた話を含むという指摘が、戦略性の重要性と、成功のために本質さえもすり替えることが古くから存在するということに興味。 

この本については書いても書いても書き足りない気がするので、都度都度、引用文とともにエントリを書きたそうと思う。

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2011/08/17

『ペルセポリスⅡ マルジ、故郷に帰る』/マルジャン・サトラピ

ペルセポリスII マルジ、故郷に帰る
ペルセポリスII マルジ、故郷に帰る マルジャン・サトラピ 園田 恵子

バジリコ  2005-06-13
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僕はたいていの自分の悩みというのはしょうもない、取るに足らないものだと考えていて、自分の悩みだけでなく、周りの人の悩みも、たいていは取るに足らないものだと考える。なぜ取るに足らないかというと更に他人との比較論で取るに足らないものと考える訳で、その比較対象というのはこの『ペルセポリス』のマルジ、のような存在だ。もちろん、「わたし」から「あなた」の悩みを見て上だの下だの言ってはいけないと肝に銘じているものの、ワールドワイドクラスで考えると、途端にその物差しの目盛が変わるのだ。

マルジはイランの少女で、両親の計らいでオーストリア・ウィーンに留学している。この『ペルセポリスⅡ』では、留学先ウィーンでの4年間の人生と、テヘランに戻り学生結婚し破局するまでの過程が描かれている。そこにはイラン・イラク戦争、イラクのクェート侵攻、イランの凋落と体制主義などが淡々と、しかしくっきりと描かれる。自由を求めてウィーンに渡ったのに、どうしようもない流れに飲み込まれてテヘランに戻りたいと切実に思うその経緯は、自分の悩みをしょうもないことだと言うに十分だと思う。

読書体験というのは、実体験では補いきれないものを補ってくれる。それは確かに実体験ではないし、テレビモニタで見るような実際の映像つきでも音声つきでもない。でも確かに文学は実体験を補ってくれることができる。それは映像や音楽とは根本的に質の違うもの。本著は、その根本理由を説明できなくても、そう信じさせてくれる良い「漫画」だと思う。

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2011/08/10

産経新聞2011年08月08日朝刊「Karoshi 過労死の国・日本」

文京学院大学特別招聘教授で、ILO事務局長補などを歴任した堀内光子(67)は意外な理由を明かす。「日本は労働時間の規制に関するILO条約を一本も批准していない。批准しない政府には、監視も改善勧告もできない」

こういう情報は、感覚的にだけど、日経を読んでいても絶対に出てこない気がする。日経は基本的に経営よりの発想思想で記述された記事が並び、日本ではビジネスマンとしては日経を読んでいなければならない、という空気で、誰もが経営よりのロジックを「これが現実」と取りこまされてきている気がする。最近の原発再開に対するスタンスなんかはその典型。でもよく考えてみたら、紙名に「経済」と、経済だけの1カテゴリを関している新聞がメインになるような状況は単純に考えておかしいと思い始めた。社会は経済が中心で成り立っている訳ではない。

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