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2011/10/11

『来たるべき蜂起』/不可視委員会

4779114802 来たるべき蜂起
不可視委員会 『来たるべき蜂起』翻訳委員会
彩流社  2010-05


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 『来たるべき蜂起』はフランスで2007年に刊行されたもの。本書は2009年の『焦点を合わせる』が所収された増補版の訳書。僕にとってのポイントは3つ:

1.これは基本的には「目には目を」の思想である。
2.「蜂起」は比喩ではない。
3.フランスの思想に触れるときはいつも、相対するように見えるものがそれぞれお互いの一部であり、あるものはあるものの一部であり、それが一つのものに見えるように見えて実は既に異なるものに変わってしまっている、ということが詳らかにされる。そうやって常に出口を切り開いてきたが、遂に出口などないということが語られている。

 コミューンとは何か。コミュニティとは何か。コミューンであれコミュニティであれ、何かひとつの集団を形成するとき、形成する成員につきまとうあの選民感情、特権意識、優越感。たとえそれが「自由」を標榜するコミュニティとしても、コミュニテイである以上はコミュニティの内と外を造り出してしまうことに、気づかない。本著ではこう記される。

そうしたものをネットワークと呼んだところで、それらは結局のところひとつの界(ミリュー)として固着してしまう。そこではコード以外何も共有されず、アイデンティティの絶え間ない再構築が行われるだけである。

 労働を憎む。労働こそが、この資本主義社会を維持してしまう装置になっている。もちろんこれを額面通り受け止めて自らの行動に直結させることはできないが、誰もが薄々感じていながら口に出さなかった多くのことの一つとして、現在を考える上で認識しておかなければならないことのひとつ。

これからも消費するために消費を減らし、これからも生産するためにオーガニック商品を生産し、これからも規制するために自己規制すべきであると。

 「タルナック事件」が明らかにした、国家によるテロリズム、「いずれ犯行に及ぶに違いないという憶測で」逮捕されたこの事件。それを可能にしたのは、人民の恐怖心なのだろうか。

 いずれのテーマも、どこかに引かれる線-”界(ミリュー)”が問題になっている。自分が何者かを語ろうとするとき、自明のように「個人」の概念が用いられるが、「個人というあのフィクションは、それが現実化したのと同じ速さで崩壊してしまった。メトロポリスの子供としてわれわれは断言できるが、剥奪状態が極まったときにこそ、つねに暗黙のうちに企てられてきたコミュニズムの可能性がひらかれる」。

 問題は、いつも境界だ。”界(ミリュー)”だ。どれだけ崇高な志から形成されたコミュニティでも、必ず”界”を準備する。そうして個人も”界”がなければ個人として成立できない。そのことに自覚的であり敏感であるコミュニティにお目にかかることは滅多にない。コミュニティを形成じた時点で、自分達のその崇高な志と相反するものを敵とするだけでなく、自分達以外のすべてを”界”の外側として敵に回しているということに自覚的でない。

 それでもコミュニティが生き残り、コミュニティの生成が止まないのは、人間の生の循環が止まないからではない。人間の根源的な弱さ-それも無自覚的な弱さの故だと思う。都合のいいところだけを味わって、生きていきたいのが人間なのだ。そのご都合主義が、新たな「社会問題」を生み出し、それによって繰り返し疎外され、それをまた「社会問題」と定義づけられその解消に励むように誘導されてしまっているというのに。

 コミューンの拡張にさいしてそれぞれが配慮すべきは、これ以上拡張すれば自分を見失い、ほぼ不可避的に支配階層ができてしまう規模を越えないということである。そうなったときコミューンは不幸な結果を察知しつつ分裂し、また広がっていくことを選ぶだろう。

 カリスマとコミューンは矛盾する。コミュニティも然り。コミュニティにヒエラルキーは不要なのだ。某かの秩序を持ったコミュニティは、偽物のコミュニティだ。擬制なのだ。しかし、それには誰もが目を瞑ろうとする。

集合の欲求は人類にとって普遍であるが、決定を下す必要はめったにない。

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2011/10/01

『行動主義-レム・コールハースドキュメント』/瀧口範子

行動主義―レム・コールハースドキュメント
行動主義―レム・コールハースドキュメント 瀧口 範子

TOTO出版  2004-03-15
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 レム・コールハースは、ハンス・ウルリッヒ・オブリスト+ホウ・ハンルゥ というサイトで偶然知った。ハンス・ウルリッヒ・オブリストもホウ・ハンルゥも知らなくて、このサイトを知ったところから本当に偶然。このサイトを見るきっかけになったのは日経朝刊最終面に、森美術館で開催中の「メタボリズムの未来都市展」と関連づけて、メタボリズムが取り上げられていて、「メタボリズムとはなんだろう」と検索してみたところから始まった。そこでレム・コールハースを知り、レム・コールハースが『プロジェクト・ジャパン』という本を出すということを知り、そうしてこの本に辿り着いた。

 レム・コールハースは、こういった風に書籍に取り上げられる他の著名人と同じで、天才であり超人だ。だから、このタイプの書籍を読むときにはいつも「鵜呑みにしてはいけない。自分の頭で考えて取りこむように」と意識している。それでも、レム・コールハースのスタイルには惹きつけられ、鼓舞されるようなところがある。

 最も印象に残っているのは、「コールハースの仕事ぶりについて、彼をいくらかでも知っている人に尋ねると、「レムは編集者だ」という言葉がよく返ってくる」というくだり。「編集とは何か?」というのは、今年ずっと付きまとっている命題なんだけど、ここでは、コールハースの建築家としての活動の、世界と世界の"変化"を受け止め掘り下げその社会的な問題に深く関与していくというスタンスとイメージが重なりあう。コールハースはプラダ・プロジェクトに携わることで商業主義に堕落したという批判を受けるが、現代世界にショッピングが大きなウェイトを占めていることから目を逸らしても意味がない、という。

 同様に、世界は常に変化を続け、好むと好まざるに関わらず、というよりも、ほとんどの人は変化を好み、その結果、今年は去年と、来年は今年と異なる洋服を纏いたいと思うものだ。そういった「欲望」からの変化への圧力と、世界が複雑になったが故に変化しなければならないという「必然性」からの変化への圧力によって、世界だけではなく個人も常に変化の圧力にさらされる。このような世界では、「未来永劫維持できる」建築や品物を創ることは到底不可能なのだ。住居ですら、一生モノではない世界なのだ。その住居の内部に存在させる品々を一生モノにしたところで、何の意味があるというのか?一生モノを謳える製品は確かにそれだけの耐久性とクオリティを保有しているかもしれない。しかし、もはや「一生モノ」を一生保有し続けることなど、「欲望」と「必然性」のどちらの観点からも能わない世の中で、「一生モノを保有すること・選択すること」に優越性を覚えさせるような価値観を流布することは、どちらかと言えば犯罪的だろう。不必要となる時間分の、余剰の金額を払わせてそれを自らの利潤としているのだ。

 変化は受け入れるべきなのだ。変化が存在する以上、一生モノを選ぶモノと選ばないモノの、選ぶときと選ばないときの、その「選択の自由」を尊ぶような価値観でなければ現代には存在する意味がない。これが、僕がコールハースによって自信を与えられた僕の考えだ。そうして僕の興味はここから民藝活動にジャンプする。それはこの一節からだ。

 ”あえて何が僕の本当の審美感かというと、アルテ・ポーベラ(貧しい芸術)が最も深く僕をかたどっている。そのために用意されたのではないオブジェ、日常的でないものの美しさ、ランダムさ。現在の文明には、多くのランダムさと分裂が起こっている。その分裂を見出して美しさに転換すると、妥当なオブジェが生まれる。”

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