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2011/11/29

『スウィート・ヒアアフター』/よしもとばなな

4344020936 スウィート・ヒアアフター
よしもと ばなな
幻冬舎  2011-11-23


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 これは、関西に住んでいる僕のような、東日本大震災で直接的な被害に遭っていない人こそ読むべき物語だと思います。絶対に読むべきです。

 帯に「この小説は今回の大震災をあらゆる場所で経験した人、生きている人死んだ人、全てに向けて書いたものです。」とあって、「そうなんだ」と思って読んで、読み終えて「そうかなあ?」と思って、今これを書き始めて「その通りだ」と思ったのです。

 この物語の中には、大震災は出てきません。そこまで直接的な物語ではなく、帯に「小夜子は鉄の棒がお腹にささり、一度死んで、生き返った。」と書いているほど、オカルティックな物語でもありません。確かに鉄の棒がお腹にささるんだけど、「一度死んだ」はどちらかと言うと、比喩的です。
 でもこの物語は、確かに大震災を経験した人々に向けて書かれているということは、読めば実感できると思います。「とてもとてもわかりにくいとは思いますが」と書かれてますがけしてそんなことはなくて、恋人を喪失し、自身も生死の淵を彷徨い、そこから回復していく様は、変わらぬばなな節であり、大震災を経験した人々への祈りであることもストレートに読み取れると思います。

 でも、僕は読中も読後も、いくつも胸に迫るシーンがあったりしつつも、何か読み足りない気持ちが残りました。うーん…と思ったのですが、あとがきを読んでわかりました。

 もしもこれがなぜかぴったり来て、やっと少しのあいだ息ができたよ、そういう人がひとりでもいたら、私はいいのです。

 この物語の「重さ」は、やはり、あの大震災の被災者の方にきっちりと伝わるのだと思います。あとがきでばなな自身が「どんなに書いても軽く思えて、一時期は、とにかく重さを出すために、被災地にこの足でボランティアに行こうかとさえ思いました。しかし考えれば考えるほど、ここにとどまり、この不安な日々の中で書くべきだ、と思いました。」と書いている通り、被災を真剣に受け止めている人に伝わる「重さ」なんです。そして、その「重さ」を、頭でわかっても心には感じ切れなかった僕は、やはり、大震災を自分のこととして捉えていないのだと思います。
 だからこそ、東日本大震災で直接的な被害にあっていない、西日本の人々に読んでほしい、如何に自分が東日本大震災を自分のこととして捉えていないかがきっとわかるから。だから、冒頭で引用したように、「この小説は今回の大震災をあらゆる場所で経験した人、生きている人死んだ人、全てに向けて書いたもの」という言葉に深く納得したのです。あらゆる場所。

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2011/11/27

『ラフ・ライド―アベレージレーサーのツール・ド・フランス』/ポール・キメイジ

4915841863 ラフ・ライド―アベレージレーサーのツール・ド・フランス
ポール・キメイジ 大坪 真子
未知谷  1999-05

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 今、日本は空前の自転車ブーム。ほぼ連日のようにニュースでは自転車に関するニュース(それはたいていピストの暴走とかのあまりよくないニュース)が取り上げられる。エコな移動手段、健康的、クリーンなイメージと共にある自転車。でも自転車がブームになったのは今が初めてじゃない。1960年代にも大流行したことがあるらしく、当然だけどその歴史は古い。

 本著が取り上げているのはそれよりはまだ新しく、1980年代後半のツール・ド・フランスを中心に語られる。1980年代と言えば日本は高度成長期からバブルに向かおうとする、正に現代に通じる発展を遂げてきた時代で、世界ももちろんそう変わらない。にも関わらず、登場するエピソードはいったいいつの時代の話なんですか?と繰り返し聞きたくなるくらいに泥臭く闇の世界的なある行為が語られる。ドーピングだ。
 自転車競技は1980年代、薬物に汚染される道をひた走っていたらしい。ドーピング自体は禁止行為だったが、バレなければ構わない。というよりも、バレずに済むことが判っていれば使用する者が当然のように現れ、使用しない者は使用する者にどうやっても勝てないとすれば、これも当然のように誰も彼も使用するようになる。正に悪化は良貨を駆逐する。そこまでして勝たなければいけない最大の理由はスポンサーだ。つまり、1980年代のロードレース界は、金によって薬にズブズブと使ってしまっていたのだ。

 著者のポール・キメイジは本著のサブタイトルに「アベレージレーサー」とある通り、華々しい戦績を挙げた選手ではない。であるが故に、ドーピングの告発を込めたこの本も、その発言も、「ぱっとしない選手がああいうことよく言うんですよね」式に片づけられそうになったらしい。ルールを破ることが成功するための唯一の道で、その中でルールを守ることを貫き通す勇気を、この本から学ぶことには意味がある。どんな世界でも、常にルールと倫理を厳しく守り通して競い合うとは限らない。むしろ逆で、ルールの抜け道を探し出すことが勝利に大きく貢献したりする。それでも、自分はそのようなことはしないというスタンスを貫く勇気と、そういうルールを補正し続けて行こうという持続力の大切さを知ることのできる良書。

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2011/11/20

『震災のためにデザインは何が可能か』/hakuhodo+design studio-L

4757142196 震災のためにデザインは何が可能か
hakuhodo+design studio-L
エヌティティ出版  2009-05-29

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 この本は、hakuhodo+designと山崎亮氏のstudio-Lが2008年に実施したプロジェクト「震災+design」をまとめたもの。東日本大震災を経験したこの2011年、果たしてこのプロジェクトの活動およびアウトプットで実際的に役立ったものがあったのか、その「活動」を役立てた「活動」があったのか、そういうところに興味が向くものの、読中は「システムをデザインしている立場として、”デザイン”とはどういうことかを異なった分野のデザインから学ぶ」つもりで読みました。

 震災のためのデザイン、ということで、当然強く印象に残るのは「社会的デザイン」という考え方です。商業的デザインと社会的デザインの違いは本著を一読することで理解できるものの、「社会的デザイン」という新しい視座を、自分の領域である「システムデザイン」にどう絡めるかというのは難しい。「システムデザイン」というのは原則必ず商業的デザインであるから、という次元の捉え方ではなくて、「商業的デザイン」ではなく「社会的デザイン」を行うときの、対象の把握の仕方、前提の整理の仕方、デザイン中の進め方、出来上がるデザインの完成を図る物差しとしての価値観、等々を、システムデザインにも反映できるはず。これを反映することは、システムデザインの手法だけではなく、自身の「働き方」そのものにも影響を与えることになるので、丁寧に時間をかけて整理してみたい。

 「システムデザイン」そのものの文献も、再度当たってみないといけない。

 もうひとつは、例え社会的デザインであっても、デザインは「正しさ」「楽しさ」「美しさ」を持つものだ、と定義されていて、ここでいちばん引っかかるのは「美しさ」。「美しさ」の基準を考え直すため、『言語にとって美とは何か』を再読しようと思った。

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2011/11/08

『ユリイカ 特集=宮沢賢治、東北、大地と祈り』

4791702255 ユリイカ2011年7月号 特集=宮沢賢治 東北、大地と祈り
吉本 隆明 池内 紀 奈良 美智 大庭 賢哉 桑島 法子 天沢 退二郎
青土社  2011-06-27

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宮沢賢治と吉本隆明は、僕の読書体質に大きな影響をくれた二大文筆家なので、もちろん読まないわけにはいきません。

東日本大震災に遭って、吉本隆明が宮沢賢治ならどう考えただろうか、という推測が語られます。ひとつは、宮沢賢治は両眼的かつ包括的な物の見方をする。だから、津波に関しても、一面的な分析はしなかっただろう、ということ。もうひとつは、東日本大震災で日本の気候の何かが変わってしまったのではなく、ここ十数年の間にじわじわと気候変化が起きていて、その結果のひとつとして東日本大震災が発生したのだと捉え、今後はこのような気候であることを前提として、社会の仕組や建築建造などを考えていったほうがよい、という話で、このふたつが印象に残っています。

より変化に強い、というよりも突発的な破壊に強い、そういう社会や建築建造を志向するのは、最近、目にする度に収集している「メタボリズム」の思想に関連したり、ここ1、2年の間、聞こえることが増えてきているような気がする「”所有”に対する疑問」にも通じるようでおもしろい。

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2011/11/06

『スクウォッター-建築x本xアート』/大島哲蔵

4761523182 スクウォッター―建築×本×アート
大島 哲蔵 大島哲蔵アーカイブ
学芸出版社  2003-06

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【ノート】
p92「ポトラッチ」・・・太平洋岸北西部インディアンの重要な固有文化。彼らの社会的地位は所有の量ではなく、贈与の量で決まる。
「ヴァルネラビリティ」・・・攻撃誘発性。
「ボルシェヴィズム」・・・ボルシェビキの思想を実践する流派。
※「プチブル」のコンテクスト。

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2011/11/05

『食う寝る坐る 永平寺修行記』/野々村馨

食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫)
食う寝る坐る永平寺修行記 (新潮文庫) 野々村 馨

新潮社  2001-07
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 デザイン事務所勤務の著者が30歳の時、突然出家し一年間永平寺にて修行生活を送ったノンフィクション。

 まず、お寺と何の関係もない一般の人が、突然思いついて出家するなんてことが許されるんだという驚きと、おまけに一年で帰って来れるんだという驚き。僕は出家と言うと、もうそのまま一生、仏の道を歩まなければいけないものだと思っていたので、「一年間」という区切りのある永平寺の修行というのがまず驚きだった。
 ただ、僕にとってこの本を読み終える目的と言うのは、アマゾンのユーザーレビューの中にあった、「強制力を持って成し遂げて得られた達成感というのは、一時的なもので人間的成長にほとんど有用でない」という意味のレビュー、その内容の真偽を確かめたい、というものになっていた。

 と言うのも、僕も概ね、スパルタ方式とか徒弟制とかに懐疑的だから。僕たちの世代というのは、親の世代=団塊の世代以上に、徒弟制のようなものに懐疑的で、大学生の頃から年功序列を敵視し、実力主義を尊ぶような思想に染まって育ってきた世代だし、ちょっと話は逸れるけどダウンタウンのような「ノーブランド漫才」=師匠が存在しない、という仕組=主従・徒弟ではなく、職能教育を施す仕組が本格的になっていきそうな時代に育ったので、スパルタ式や徒弟制に疑問を持ち続けてきた。人間扱いされていないような言われようが我慢できない、という程度のこともあるし、世の中にはそれが本当に人間の尊厳を損なうところまで突き進んでしまっていることもある。

 だから、徹底的に強制的で、暴力的と言ってもいいくらい厳しい永平寺の修行を通して、著者がどんな満足感を得たのかというのが知りたかった。

 読んでいて感じたのは、まず、著者にはそういう視点がないのだろうということだった。ある一つの思想に、哲学に、その方法論に、良し悪しを問わずまるごとどっぷりと浸かること、そのことを批判的に評価する視点はなかったのだろうと思う。もちろん宗教というのはそういうもの。だから、著者はつべこべ言わず、永平寺の流儀を丸ごと飲み込んだ。そして、その結果辿り着いた地点に、十分な達成感と満足感を得て下山した。
 僕は、この、「どっぷり浸かる」というやり方が、最も効率的であるということは知っている。右も左もわからない世界では、まずどっぷり浸かるのが最短距離。例えば数学において公理公式を丸ごと暗記するように。でも、その一方で、例えば某企業において、まるで軍隊と見紛うまでの徹底教育が成され、その結果業界でも群を抜いた業績を収めるというトピックがあるけれど、それは、要は社員を徹底的により安くより多くを産みだすように訓練しているに過ぎない。

 という訳で、資本主義体制の欠点の視点からも、僕はスパルタ式・徒弟制というのはよくないことだと思っていたのだけれど、反対に、なんでもかんでも理屈や理由がないと行動できない現代人というのもどうかなと疑問に思ってて、例えば電話対応を誤ると自社の悪い評判が口コミであっと言う間に広がり、それを回復するコストが高くつくので正しくやりましょう、とか、そんなもん理屈以前にやれて当たり前だろう、と常々思っている。その「当たり前だろうと常々思っている」部分、かつては「常識」と言えたのに、多様性とか個性を尊重とかが行き過ぎて「常識」と軽々しく言ってはいけない風潮が間違った方向に進んでるところを、「常識だろ」と言えるような、そういう強制力はやっぱり必要じゃないのかな、そんな風に読み終えて思ったのでした。

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2011/11/03

『オートバイ・ライフ』/斎藤純

4166600486 オートバイ・ライフ (文春新書 (048))
斎藤 純
文藝春秋  1999-06

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オートバイ好きの作家による、オートバイの愉しみ方。
僕はオートバイには乗らないので、オートバイに直接関わる情報についてはそれほど役に立つ訳ではないけれど、「愉しみ方」という観点はとても面白かった。僕はロードバイクに乗っているが、ロードバイクもオートバイと同じで、パーツやウェアに拘りだすと切りがないものの、それが「愉しみ方」とは思えないし、欲しいものは出てくるものの、それを愉しみとはできない自分がいて、なぜそれが「愉しみ」ではないのかを、本著は明確に語ってくれる。

オートバイの本と言いながら、映画やクラシックの話題も絡められ、オートバイに乗るということが、ひとつの文化と言えるようになっている。オートバイが文化を形作ってる側面。こういう本に触れるにつけ、自分が若い頃からあまりにも映画やクラシックに興味を持たな過ぎてきたことを後悔する。

特に面白かったのは、エコロジーに対する「感傷」という批判。「牛肉を食べている人間に自然保護を語る資格はない」式の言い分に対して、「子供っぽい感傷」と一刀両断にしている。そして、「知ること。行動すること。」というロジックを展開している。ここで言う「感傷」と言うのは、言うなれば「思考停止」ということだろう。僕は感傷そのものは否定しない。何も生み出さない感情の美学というのは確かにあるから。それを、文学とか音楽とか、アートだけの特権にしておく必要はないと思う。けれど、感傷を持ちながらも知り、行動する手立てはある。そこまで考えた上で、「アンドレ・マルローが1930年代に、悲観的かつ行動的な者たちは、ファシストであり、将来ファシストになるだろうと述べている」という一文が、重い。

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