『スウィート・ヒアアフター』/よしもとばなな
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スウィート・ヒアアフター よしもと ばなな 幻冬舎 2011-11-23 by G-Tools |
これは、関西に住んでいる僕のような、東日本大震災で直接的な被害に遭っていない人こそ読むべき物語だと思います。絶対に読むべきです。
帯に「この小説は今回の大震災をあらゆる場所で経験した人、生きている人死んだ人、全てに向けて書いたものです。」とあって、「そうなんだ」と思って読んで、読み終えて「そうかなあ?」と思って、今これを書き始めて「その通りだ」と思ったのです。
この物語の中には、大震災は出てきません。そこまで直接的な物語ではなく、帯に「小夜子は鉄の棒がお腹にささり、一度死んで、生き返った。」と書いているほど、オカルティックな物語でもありません。確かに鉄の棒がお腹にささるんだけど、「一度死んだ」はどちらかと言うと、比喩的です。
でもこの物語は、確かに大震災を経験した人々に向けて書かれているということは、読めば実感できると思います。「とてもとてもわかりにくいとは思いますが」と書かれてますがけしてそんなことはなくて、恋人を喪失し、自身も生死の淵を彷徨い、そこから回復していく様は、変わらぬばなな節であり、大震災を経験した人々への祈りであることもストレートに読み取れると思います。
でも、僕は読中も読後も、いくつも胸に迫るシーンがあったりしつつも、何か読み足りない気持ちが残りました。うーん…と思ったのですが、あとがきを読んでわかりました。
もしもこれがなぜかぴったり来て、やっと少しのあいだ息ができたよ、そういう人がひとりでもいたら、私はいいのです。
この物語の「重さ」は、やはり、あの大震災の被災者の方にきっちりと伝わるのだと思います。あとがきでばなな自身が「どんなに書いても軽く思えて、一時期は、とにかく重さを出すために、被災地にこの足でボランティアに行こうかとさえ思いました。しかし考えれば考えるほど、ここにとどまり、この不安な日々の中で書くべきだ、と思いました。」と書いている通り、被災を真剣に受け止めている人に伝わる「重さ」なんです。そして、その「重さ」を、頭でわかっても心には感じ切れなかった僕は、やはり、大震災を自分のこととして捉えていないのだと思います。
だからこそ、東日本大震災で直接的な被害にあっていない、西日本の人々に読んでほしい、如何に自分が東日本大震災を自分のこととして捉えていないかがきっとわかるから。だから、冒頭で引用したように、「この小説は今回の大震災をあらゆる場所で経験した人、生きている人死んだ人、全てに向けて書いたもの」という言葉に深く納得したのです。あらゆる場所。
p26「自分の重さをくりかえし言い訳しながらも言葉が止まらない」
p29「人生がこんなふうに白紙になる機会に恵まれてしまう人ってこの世にいるのだろうか?」
p42「最高に悲しかったのは、あの日のトイレの中だ」
p51「ほんとうはカフェにもバーにもきれいな旅館にも旅館のおいしい朝ごはんにも・・・そういうことには一切興味がなかったから、私に合わせてくれていたのだろうと思う。」
p74「動け動けと私の命が言っていた。人生にオチはないし、かなう目標もない。ただ流れとか動きがあるだけだ。」
p101「死の分量は歳と共に増えていくわけではない。死はずっとそばにいる。ただ死の思い出が増えているだけだ。」
p106「なににおきかえてもみんな同じ過程だ。その全部をなるべくねばれ。先を見たい気持ちでのめるな。ねばって一歩でも遅くためていくんだ。」
・・・アップアップアップしてももうちょいねばれ
p111「60年代に青春を送った親の子どもって、どうしてもロマンティックラブに対する強迫観念があるよね。」
p118「こんなに美しいものの中で、醜いことを考える自由がある。」
p125「私は死んだあとにうっかり成仏できなかった場合の自分を想像して、好きでもない服を着て、街にまぎれるような姿でうろついていたら、成仏するきっかけを失っちゃうな」
・・・自分の思いに忠実に生きることは大切 でもやりたい放題にやることが自分の思いに忠実であり自由なんだと勘違いしてはいけない 感じるのは苦しいという想いでも、それが自分の思いに忠実であり自由ということもあるのだから
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