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2012/06/23

『デザインと死』/黒川雅之

4883376540 デザインと死
黒川 雅之
ソシム  2009-05

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 タイトルになっている「死」に関する散文については、事実認識が間違っているところもあって、真剣に読む気になれなかった。日本人に神はいなかった、の下り等。正確性を欠く。「日本人とは古来・・・」という、日本人の特異性を説く言説に対してはまず厳しい目を向けようと常に考えているが、本著の「死」に関する散文についてはその必要もなかったくらい。

 翻って、株式会社Kの話はスリリングでとても面白かった。特に、設立当初から海外売上の占める割合を70%にするという目標設定をしたというあたりなど。理想を掲げる人はたくさんいるけれども、成功する人というのは理想を単に現状維持のためのものではなく、現状を把握した上で目標を設定するんだなというところ。

 もう一つ、伝統産業について批評を加えている散文があったので、橋下氏が今やっていることに対してどのような意見を述べられるかを聞いてみたいな、と思った。

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2012/06/16

『PUBLIC 開かれたネットの価値を最大化せよ』/ジェフ・ジャービス

4140815132 パブリック―開かれたネットの価値を最大化せよ
ジェフ・ジャービス 小林 弘人
NHK出版  2011-11-23

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 「パブリック」を称揚するんだろうという先入観から行くと、プライバシーなど全く無くなってしまったほうが良いという論が展開されるものだと予想するけれど、本著はそんなに短絡的で浅い論ではなかった。平野敬一郎の『ドーン』を読んだ際、「ディビジュアル」という概念が出てきて、これはインディビジュアルと呼応した表現なんだけど、「人間はもともと1つの首尾一貫した顔だけを持つのではなく、社会のなかでさまざまな役割があるだけさまざまな顔を持つものであって、それが自然な人間の姿」として、そういうさまざまな顔の一つ一つを「ディビジュアル」と名付けてた。本著における「プライバシー」と「パブリック」の対概念は、この「ディビジュアル」を思い起こさせた。ただ一つの公共圏と、個人がそれぞれに作る無数の公共圏。そして、何をどこまで公共圏に含めるかは個々人の判断で、その行為が「シェア」である。ただ一つの公共圏と個人それぞれの無数の公共圏というのは、正にディビジュアルの考え方。そして、ディビジュアルをディビジュアル足らしめる行動を、本著では「シェア」だと言ってるんだけど、確かにシェアがなければ公共圏を形成できないけれど、「シェア」だけだとするとアクティブに関わることだけが「圏」を形成することになる。これはすっきりする考え方ではあるけれど、「圏」にはパッシブに影響するものもあることは否定できないし、忘れてはいけないと思う。
 「パブリック」というのはシェアであり、つまり「公開」することからは決して切り離されないとしたら、パブリックというのは不可逆的であると言っていいと思う。だから、著者は「データ保護の4つの柱」に喰ってかかっている。一旦公開されたものはなかったことにはできない。それは確かにそうだけど、技術的なことを言えば、人々の記憶に残ることと、某かの媒体に残ることとは区別すべき問題だと思う。人々が知ってしまったことをなかったことにはできないとしても、ログを削除可能であることは、パブリックに取って必要不可欠なことだと思う。10年前の自分は今の自分とは違う、だから生まれたときの自分と今の自分とはもはや同じ自分ではない、だから「私」の同一性は何をもって保証されるのかと問うと、過去の「私」の痕跡がログに存在していることは、現在の「私」のパブリックの必要条件ではない、と言えると思うからだ。

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2012/06/10

『100の思考実験』/ジュリアン・バジーニ

4314010916 100の思考実験: あなたはどこまで考えられるか
ジュリアン バジーニ 河井美咲
紀伊國屋書店  2012-03-01

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 2005年にイギリスで出版された『The Pig That Wants to Be Eaten And 99 Other Thought Experiments』の翻訳。ハーバード白熱教室で有名になった「トロッコ問題」をはじめとした哲学的課題が100収められています。それぞれの課題は、物語風に語られ、その後、どう考えるといいか、方向が解説的についています。トロッコ問題でいうと、トロッコの分岐点に立っている自分に向かって、暴走トロッコが突っ込んでくる、そのままにしておけば、40人が作業している作業場に突っ込んでしまうが、ポイントを切り替えれば5人の作業場に進路を変えられる、自分はより被害が少ないほうを、意図的に選ぶべきなのか。選ばなければその結果に自分は責任を負わなくてよいと、言えるのか。

 僕はこの「トロッコ問題」のような、選択の意志に関する困難性を考え抜くのはとても大事だと思ってる。選択が難しい課題を、「難しい」で済ませてしまうことは簡単だけれども、それでは生きている意味がないとさえ思えるから。とりわけ今の日本には、原子力発電という難しい問題がある。世界各国では継続であれ廃止であれ、答えを考え結論を出し歩みを先に進めているように見えるなかで、日本だけが遅々として前に進めていないのは、こういった「考える」ことの文化の欠如に起因しているのかも、と思った。だからこそ、この『100の思考実験』の100の課題を、真剣に常に考え抜きたい。

 最後の思考実験が、現代では避けては通れない市場主義・資本主義の問題を取り上げていてこれがいちばん重要に思う中、僕がいちばん気に入っている部分は:

p256 「判断を誤る可能性があるからといって、何もしない言い訳にはならない」

 日本の政治家に聞かせたい一文だし、常に先送りで済ませようとする我々日本人が考え抜かなければならないテーマだと思いました。

 

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2012/06/03

『青春の終焉』/三浦雅士

この、圧倒的に打ちのめされる感じが、評論の醍醐味。

「青春の終焉」というタイトルだけで、もうビッと来た。何が書いてあるかはすぐわかったし、読んでみたいと思った。この本を書店で見つける数日前に、別の書店で買った『反哲学入門』の帯で見た名前が著者だというのも、この本は読まなければいけないというサインだと思った。そして、期待通りの面白さだった。最初の1ページから最後の1ページまで、ずっとおもしろいおもしろいと思いながら読み続けられた評論は久し振り。原本は2001年刊行、なんで見つけられなかったんだろうと思うくらい。「青春の終焉」というテーマについて、「そもそも青春とはあったのか?あったとすれば、それはいつからあったのか?」という問いの設定からおもしろくて、1972年生まれの僕にとって物心ついた頃からずっと胡散臭かった「青春」について、余すところなく徹底的に解剖してくれる。

僕にとって「青春の終焉」以上に大きなインパクトだったのは、「連歌」の話。連歌は15世紀に宗祇が完成させた知的遊戯だが、僕は連歌のことを単なる「知的遊戯」だと思っていた。その当時の知的階級=特権階級が、どれだけの知識量を持っているかを背景に戦う知的遊戯。事細かに規則が決められ、その規則を知らないことが野暮扱いされ、元は「おもしろさ」を保つためだった規則に雁字搦めになって芸術性を保てなくなる詩歌の類同様に下火になったというような理解をしていた。

しかし、連歌を考えるときに大切なのは、「座」だった。連歌というのは複数でその場に集って句を読み合うので、必然的に「その場所に集まれる」人達とのつながりが大切になる。というか、その地理的なつながりがないとできない遊びだ。そうして、連歌は前の人の句を受けて読む訳だから、どうしても何か共通の「おもしろい」と思える感覚が必要になる。それは土地に根付いたものなのかどうなのか、かくしてその「おもしろさ」のための規則が生まれたりしたようだけど、僕にとっては、この、「座」という場所は、当たり前のように「共通の言語」を持たなければならないという事実に、改めてインパクトを受けたのだった。

僕はコミュニティが特権意識を持つことがとても嫌いで、コミュニティが特権意識を持つために「共通言語」が必ず生まれると思っていた。言語だけではなくて知識もそうだけど、先にコミュニティに入っている人は後から入る人よりも当然たくさんのコミュニティ内で必要な言葉や知識を持っていて、それをオープンにするかクローズにするか、というようなところで嫌悪感をよく抱いていた。しかし「座」にとってはそれは当たり前のことで、さらに重要だったのは、それを「座」だけのものにしておこう、という姿勢もあった、ということだ。それを「座」だけのものにしておくことで、徒に句としての高尚さを競ったり、難渋な解釈を覚えたりすることを避けることが出来、「座」の一同は、いつも楽しくおもしろく連歌を愉しむことができる。それを担保しているのは、共通言語であり共通知識なのだ、と。

その分岐点となるのが、口語か文語か。「座」というその場限りの口語で留めておくのか、後に残すために「文語」を選ぶのか。「文語」を選んだ途端、「おもしろさ」を犠牲にせざるを得ない。なぜなら、「文語」は「座」の存在する土地を離れてしまうから。何が「共通」するかわからない地点に飛んで行ってしまうから。「文語」を選んだ途端に、「笑い」を失っていく文学。

何かが一斉に流行することは昔からあったけど、これだけ「個性」「個性」と言われるなかで、あれは「森ガール」が端緒だったのか「沼ガール」が端緒だったのか、「ある程度」の固まりが出来るような流行がときどき発生し続けているのは、個人社会になって細分化された社会のなかで、やっぱり「座」が欲しいと叫んでいる証左なのかも知れないと思った。流行歌のない時代は寂しい、というようなことを登場人物が言ったのは重松清作品だったと思うけど、やっぱり人は「座」が欲しいのだ。

4062921049 青春の終焉 (講談社学術文庫)
三浦 雅士
講談社  2012-04-11

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