「民俗博物館」等で「民俗」という言葉を知っているだけで、「民俗」とは何か、考えたことがなかったので、「民俗学」というのも、判らないとは思わないけれどそれは何かと言われると答えられない、そういうものでした。図書情報館の乾さんのお勧めで購入。この本の面白さは、介護の現場での「聞き書き」で得られた話そのものの面白さと、「聞き書き」という行為そのものを巡る考察の面白さ、そして「介護」に対する社会制度も踏まえた上での主張、この三点。このうち、後者二点について。
著者は、「聞き書き」は「回想法」とは異なると明言します。「回想法」は、介護において、利用者(要介護者)の心の安定や、コミュニケーション能力の維持・向上を目的として行われるものです。利用者の能力向上という「目的」があり、それを実現する手段として生まれたのが「回想法」です。それに対して、介護民俗学の「聞き書き」は、まず、聞き手である民俗学者=介護者が、民俗情報を求めている立場であり、それを得る行為の結果として、利用者の心の安定や能力維持・向上になるという順序です。「利用者の心の安定・コミュニケーション能力の維持・向上」という成果は結果的に同じでも、その順序の違いは重要で決定的なものである、ということを著者はいろんな言葉で繰り返し語ります。例えば、「ケアする者とされる者は非対称である」という言葉。ケアは相互作用だけれども、ケアする者はケアに対して出入り自由であるのに対して、される者は出入りの自由はない。されなければ生命が脅かされるのだから。「回想法」の発想は、この非対称性に準拠しており、更に非対称性を強化する(要は、介護する方が「してやっている」立場で、介護される側は「してもらってるのだからおとなしく感謝しなさい」という立場)のに対して、「聞き書き」を旨とする介護民俗学の場合、聞き書きの時間はケアする者とされる者の関係性が逆転する(要は、介護する側が「教えて頂く」という立場になる)、これによって、「介護」の相互行為性が回復され、結果、「利用者の心の安定・コミュニケーション能力の維持・向上」がより成果が上がるものになる、と解釈できます。
この「双方向性」と「非対称性の解消」は、人間関係性での一つの「理想」だと思っていて異論はないのですが、これを実現するための困難さも容易に浮かびます。その一つ、「実際に、介護の現場で「聞き書き」をすることの時間的・精神的余裕の無さ」についても、本著では実践の過程が詳しく書かれています。
介護者としての実践だけでなく、介護者という個人の活動(と限界)を規定する社会制度面についても主張をきちんと書き込まれているところが本著の行き届いたところだと思います。掻い摘んでしまうと、「時間的・精神的余裕の無さ」の根本は、介護者の低賃金であり、介護者の低賃金を生んでいるのは、国民の意識が介護をその程度に低く見ているからだという問題認識です。著者は介護者として、介護の社会的評価を上げる努力をしなければならないという反省を書きつつ、「介護予防」という厚生行政の考え方を批判します。著者は「介護予防」ではなく、介護は必ず必要になるものだとして「介護準備」という考え方を示し、金銭面の準備もしていくべきだとします。この点は、財政面も含めて考えなければならないところだと思います。
「聞き書き」して纏められる「思い出の記」は、民俗学的見地からも、話をしてくれた要介護者の方の思い出としても、非常に意義深いものだと思う。個人的には、発話されたものが書き言葉になることで再び生まれる「気配」というものの他に、やはり、発話そのものの「気配」も記録し再現できることにも意義が感じられるように思いました。
「聞き書き」のモチベーションは「驚き」であり、常に「驚く」ためには好奇心と矜持が必要だという下りは、少し前なら、そんな精神論的なものでは維持できない、と考えたような気がする。しかし、この無形のモチベーションというのは、実は大事にしなければいけないという思いが強くなっている。
そして、「回想法は誰でもそれを活用できるように方法論化が進んでしまった」というのは、誰でもできるようにマニュアル化することによって魂が抜け落ちるという悲劇を改めて認識するとともに、IT化というのは基本的にモデル化でありマニュアル化であり、誰もができるようにする手伝いであるということにこれもまた再び思いを馳せてしまう。