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2013/08/24

『ビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変える』/ビクター・マイヤー=ショーンベルガー ケネス・クキエ

4062180618 ビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変える
ビクター・マイヤー=ショーンベルガー ケネス・クキエ 斎藤 栄一郎
講談社  2013-05-21

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 「ビッグデータの要諦は正確性の放棄と相関関係」という基礎知識については置いておいて、「そこに人間の自由意志は残るのか」という問い掛けにずっと心が囚われた。理由は判らないけれどもハリケーンが近づくとポップターツがよく売れるので店頭に置いておいたら果たして売上増大に繋がった、という話を聞くと、それを選択しているときは確かに自分で選択してるはずなのに、そういう選択をするということが何者かに判られている時点で自由意志ではないような気持ち悪さを感じてしまう。思想の書物を読んでいても、その選択は本当に「自分」が下した選択か?という問い掛けを何度も読んで考えてきたので、ビッグデータという、思想や哲学ではないIT分野の書物でこの問い掛けに遭遇して、自分の好奇心が刺激された。

数年前から事あるごとに思い出す「編集」に関する問い掛けもよく似ている。「果たして「オリジナル」は存在するのか?」という問い掛け。「編集」の文脈で考えるとき、「オリジナルは存在しない」というのがほぼ覆せない定説で、いつもデリダのエクリチュールを思い返す。そしてエクリチュールを思い返すとき、いつも連想でフーコーのディスクールを思い返す。オリジナルはないし、自由もない。言葉を使うとき、すでに権力に伏していて、権力の下で言葉を使っている。これまでのITの世界も、これとすごく似ていたと思う。世界の事象をそのまま扱うことはできないから、モデルを作りそのモデル内でデータを集め、更にそのデータをサマライズする。これは編集に似ていると思うし、モデルを構築する時点で、権力の元にある。
 しかし、ビッグデータはサマライズしない。ローデータにアクセスして、知見を見出そうとする。少なくとも、ITの世界の中では、ローデータにアクセスするということは、オリジナルにアクセスしているということになる。実際のデータサイエンスの世界はそんなに簡単なものではないようだけど、概念上では大量の、整形されていないオリジナルにアクセスすることになる。このITの潮流は、また新しい哲学に繋がるのだろうか?とても興味津々だけど、追いかけて行き方がまだ、わからない。

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2013/08/18

『爪と目』/藤野可織

文藝春秋 2013年 09月号 [雑誌]
文藝春秋 2013年 09月号 [雑誌]
文藝春秋  2013-08-10
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 主人公の「あなた」の無感動ぶりというか無執着ぶりというか薄情ぶりというか、誰が読んでも「現代人ってこういうふうに、無暗に自我を通そうとしたりせずに低温で生きてるよなあ」と思うような気がして、だから「あなた」だと思えて仕方ない。ちょっと人間としてでき損ねてる具合では、「あなた」が愛人である「わたし」の父もいい勝負なんだけど、「あなた」のほうが賢い感じで、父のほうがバカな感じを受ける。そして賢い感じの「あなた」が、怪死した「わたし」の母のブログを見つけ、そこに記録されていった拘りのあるようでないような些細で細やかな日常の変化の記録を追いかけまくったとき、人はなぜ「執着」するのかを少しわかったような気になる。でも肝心なところは見ないので、「わたし」に「見ないようにすればいい」と諭して施したマニキュアという「見えないようにするもの」で「見えるようになった?」と言われてしまう。

 わたしは前々からよく見えていたというのに、あなたとわたしはそれ以外はだいたいおなじという。そこが救いがあるのかないのか僕にはよく判らないけれど、日々嫌なことから目を逸らしたり逃げたりいい加減なことをやったりしつつも、僕は「あなた」や父のように、「見ないようにして」生きていたりはしていないので、この物語を自分の教訓にするようなことはないと思う。そしてそれはもちろん、この物語が自分にとって無用だったということじゃない。

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2013/08/10

『夏の入り口、模様の出口』/川上未映子

4103256214 夏の入り口、模様の出口
川上 未映子
新潮社  2010-06

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さすがだな、と思ったのは『おめでたい人』、土浦市の連続無差別殺傷事件の犯人が語る「哲学的思考」のその「哲学的センスのなさ」を明快な文章で説明してみせるとこ。そして、「なぜ人を殺せる考えの持ち主が現れるのか?」という思考方法の限界を定義して、「我々はなぜ殺せないか」を語る必要がある、というところ。理解できないからとその言葉に耳を傾けない姿勢は批判されるべきではあるけれども、哲学的思考が世に有益な作用を及ぼすためには、これ以上耳を傾けても仕方のない事柄を見抜く力と、それに対抗しうる視点で思考するセンスが必要ということかな?目から鱗です。

p13「こんな気持ちに負けないためには更なる希望を見つけて育てるしかないのかも知れないけれど、当然とされているものには逆の価値観で挑むのも一つの方法」
p25「言うべきは言ったほうがいいんですか問題」
p28「彼はなぜ殺したか、ではなく、我々はなぜ殺せないか、という側面から語られる言葉もおなじように準備するべき」
p35「「いつか絶対に死んでしまう!」という身もふたもないあまりにも絶対的な事実」「どばっと飛び起き、部屋の電気をつけて、自分に身体があることを確かめて恐ろしい興奮を逃がす、でもまだこわい」
p60「こうしたある種の感動には批評も目論見も追いつけない、という事実をマイケルの踊るのを精読ならく精観して知り、またため息をつく」
p133「世間は手を替え品を替え物語を用意して、最近は「言い切る」形で捏造して煽ってくるけど、お待ちください。この人生の主導権はいつだってこっちにあるのだからそういった物言いはすべて堂々と無視する力を持ちたいものだ。自立なんてのはお金を持つことでも独立して新しい家族をもつことでも世間の感情に自分の感情をすり寄せることでもなくて自分で考えた価値観を自分の責任において遂行するだけのことなのだった」

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