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2013/10/27

『鈴木忠志対談集』/鈴木忠志

私が「アート」「芸術」について書かれたり話されたりしているのを見聞きしたときに浮かぶ疑問についてのあらゆることがこの本に書かれていた。私のようなアートや芸術にほとんど知見のない一般市民が抱いている疑問が網羅されているというのは物凄いことだと思う。通常、その道の専門家の方というのは、一般市民の素朴な疑問は既に彼方に置き去りにしていることが多く、一般市民の素朴な疑問に対する答えも持ち合わせている人というのは、その道を追求しきっている人だと思うから。

金森譲との対談『「芸術家」は公共の財産である」から:
  • 身体に対する「言葉」をもつ。自分の関わっている事柄に対して、明晰にかつ深耕した説明のできる「言葉」を持たなければならない。このことについて、自分は、ITというのはITを触れていない人にとって専門用語が多く理解しがたいものなので、できる限り専門用語を使わない説明を指向してきた結果、ITに関わる明晰で深耕した「言葉」の獲得が等閑になっていたきらいがあると反省。
  • 集団活動のための方法論と共同意識。ある特定の目的の下にある集団活動のためには、共通の「言語」を持たなければならない。共通の「言語」を持つためには、その活動に関わる「基礎」が共有されてなければならないが、日本ではその「基礎」がおざなりにされる傾向がある。それは、舞踏の場合は、その「基礎」練習に時間をかけられないという経済的な制約に由来する。なぜ時間を掛けられないかというと、舞踏に限らないことだけれども、つまりは「芸術」で生活を成り立たせるのが難しい環境だからであり、日本人の文化レベルの問題になるかもしれないが、もう一方で「芸術」が公共財であるというコンセンサスが醸成されていなからでもある。芸術は「公共財」であるというコンセンサスが成り立つことで、自治体の財源を利用することが可能という筋道を立てることができる。
  • もうひとつ、「基礎」練習がおざなりになる理由として、日本では「素人」であることも表現のひとつであるという土壌ができあがってしまった。これは、「専門性」のヒエラルキーの害悪に対するサブカルチャー、アンダーグラウンドのムーブメントが一定の浸透を見たからだと思う。その結果、訓練されない「あるがまま」も表現のひとつとなってしまった。このことに対して徹底的に異議を唱え続けることも一つの方法だと思うけれど、私は鈴木氏が述べている「差別されることに自覚的であるか」というスタンスを習得したい。歌舞伎は身分的・社会的に差別的な位置におかれていたが、そこで異常なことを自覚的にやっていることで発露する芸術性というものがあり、メッセージ性というものがあった。これが、ヒエラルキーの害悪を回避しつつ、エネルギーを保ち続ける方法論のひとつだと思う。社会的に「素晴らしいことをしている」「正しいことをしている」という賞賛を得つつ、経済的にもメッセージ的にも成功したい、という強欲が芸術を失墜させているのではないか。

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