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2013/11/04

『海辺の生と死』/島尾ミホ

海辺の生と死 (中公文庫)
海辺の生と死 (中公文庫) 島尾 ミホ

中央公論新社  2013-07-23
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『死の刺』に登場するミホが作品を残していることも知らなかったし、解題を吉本隆明が書いていると知ったのもあって、書評で見かけて即購入。でも、タイトルに「死」がついているし、やっぱり『死の刺』のミホが書いたものだと思うと読む前からどんよりしてなかなか手をつけられませんでした。
しかし読んでみるとけして「生と死」から連想する澱んだものではなく、ミホの故郷である奄美大島の習俗や暮らしがのびやかで心優しい筆致で描かれていて、ミホとその父母の大きな心の在り様に魅せられました。「生と死」は、島で起きるあらゆることに、例えば牛の眉間を斧で打つというような、そういう一切にタブーを設けず受け入れる姿勢を端的に表したタイトルだったのです。

コミュニティが確立している、南の小さな島に入れ替わり立ち代わり本土など外部から一時的にコミュニティにやってくる。この「外部からやってくる人たち」との交流と、話の序盤で語られる頼病患者の死の話や牛の話、子山羊の誕生の話とが不思議な交歓を生む。ここを吉本隆明が解題してくれていて、これらが「聖」と「俗」の物語になっている、という。そして、「聖」と「俗」は元来一体のもの。切り離すことはできず、あるのは「聖」と「俗」から離れた外部だけだという。島尾ミホは、そのことを意識のうちに入れて、「生と死」というタイトルを与え、序盤に頼病や牛のと殺や山羊の誕生を配置し、中盤に不安な夜の回遊と旅の者という「外部」との交流を、そして終盤に、島民全員から崇め奉られる、(これも外部からやってきた)特攻隊長の夫島尾敏雄との出会いを配置したのだろうか?この朗らかで屈託のない調子は、そういった「構成」の作為が働いているとはどうしても思わせない。
この吉本隆明の「聖」と「俗」は切り離せず一体となってやってくるものだという解説は感覚的によくわかり賛成できる。現代に生きていると、「聖」はどこまでも「聖」であって、その対極に「俗」がある、というのが極めて疑いようのない常識的なことだという認識になるけれど、実は「聖」と「俗」は切り離せない。もし、何かの形で序列をつけなければならないとしたら、日常生活の柵を抜け出そうとしない自分自身の弱さを底辺に置くべきであって、そこから逸脱し超越しようとするものはすべて「聖」であり「俗」であるということだと思う。作中、ミホが「俗歌」を歌ったことを母に窘められ縮こまったことが脳裏に浮かぶ。

p73「その頃は自分の家にないものは、よその家へ貰いに貰いにいくのはごくあたりまえのこと」 p150「ああこれがあの恐ろしい「ゾッカ」というものかとびっくりした」 p213「"聖"であり同時に"俗"である人々、"貴種"であり同時に"卑種"である人々の姿を、迎えるものの内部から描破しているところに在る」 p214「こういう系譜の起りは、よくしられているように、「万葉集」巻十六の「乞食者(ほがひびと)の詠二種」などによって、由来をたどることができる」

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