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2013/12/08

『41歳からの哲学』/池田晶子

4104001066 41歳からの哲学
池田 晶子
新潮社  2004-07-17


by G-Tools

41歳の今、どういう訳か中途半端な「41歳」からの哲学、というタイトルを見つけて即借り。2004年の本なのでちょうど10年前。取り扱っている出来事も『バカの壁』や年金法案、デジタル放送や北海道地震等々並んでいて近過去を振り返るいい材料でもありました。特に北海道地震に際しての下りについては、東日本大震災を経た今、著者がどんなことを地震に対して言うのかとても興味があるし、たぶん深刻な被災者ではないと思われるので、本当に東京に大地震が起きて被災した際に何を言うのかにも興味があるが、それ以上に「北海道地震のときよりも東京での大地震の実感が高まった」のかどうかとそれについてどう言うのかに興味があります。

さて本著については頷けるところと頷けないところがはっきり別れ、しかも頷けるところも頷けないところも非常に大きいのが印象的でした。しかも頷けるところは主に「生死」に関するところ、頷けないのが「テクノロジー」に関するところ、というのが面白い。
  • 死は観念でしかない。自分の死は体験できないのだから、動物には死は存在しないし、死を恐れてもいない、人間は観念として自分の死を所有している。この説明は、今までいろんなところで触れているはずなものの、最もすとんと頭に入ってきた説明だった。
  • 「おそらくそれは、大学紛争のせいである」大学がなぜ愚者の楽園になったのか、そして大学では学問を教えるのではなく商売の仕方を教える、または商売そのものをしろというようになったのか、その原因を「大学紛争のせい」と断定している。これはその通りだと感じる。その通りだと感じる理由は本章で続けて書かれている通り、「反体制と金もうけとが、どんなふうにアウフヘーベンされたものか、一度きっちりと自己批判して頂きたい」ということに尽きる。自分たちで学問を破壊しておいてその反省もないから大学は愚者の楽園になるより他になかったし、学問を破壊するような、学問の価値を分からない人間だからこそ大学に対して「役に立つこと、つまり金もうけに直結することをやれ」としか言わない。
  • デジタル放送にしろケータイにしろ電子メールにしろおよそ新しいテクノロジを「不要」「人を馬鹿にするだけのもの」と切って捨てているが、私はこの手の言い分は間違いだと思う。それならば書物だって不要だとされた時代があったのだ。言葉は人の口から出てくるものだけが言葉そのものであって、書き残す言葉というのは何事か、と。それにテクノロジが不要だというなら人間の歴史の中で火ですら、無かった時期と使い出す時期の境目はあり、そこでは火の使用に対する抵抗があったはずだ。自分たちが生きる時代に新しく生まれたテクノロジにのみ要・不要を向けるこの手の言い分は間違っていると思う。
  • この本の一番の問題点は「言葉は交換価値ではなく価値そのもの」という部分。これは記号論から学んだ知識と激しく対立する。敢えて記号論を持ちださなくとも「言葉は言葉自身で価値を持つ」という言い回しそのものに危ういものを感じずにおれない。あるものがあるものそのもので価値を持つという考え方は、言葉に対しても当てはめるべきではないと私は思うので、その理由付けを記号論関連書籍を再読しながら考えたい。

p28「生存に観念を必要としないのは動物だけであって、人間はどこまでも観念の動物である。存在しない死を、観念として所有してしまったからである。」

p40「癌の遺伝子をもつために差別され、生命保険を解約された人の外国での例を紹介していた」
p46「ガラクタに等しい情報群の、無制限垂れ流し。熟考する前に、すぐに言いたがるという傾向。すなわち、あれらが人をいかに痴呆化しているかということについての恐るべき無自覚」
p67「言葉は交換価値なのではなくて、価値そのものなのだ。相対的な価値ではなくて、絶対的な価値なのだ」
p70「おそらくそれは、大学紛争のせいである。」「反体制と金もうけとが、どんなふうにアウフヘーベンされたものか、一度きっちりと自己批判して頂きたい」
p80「共同体というのは基本的に、皆で生き延びるためのシステムである。そこでの発想はなべて、いかに生きるかではなく、いつまで生きるかである」
p94「なべて権利というものの考え方は、人間を卑しくする。生きるのに権利、死ぬのにも権利、命は自分のものだと思っているからだが、その命そのものは自分で得たものではない。命は天与のものである。それを認めるなら、権利など誰に与えられる必要もないと、気がつくはずなのである」
p104「癌になってもいない乳房を全部取ってしまって、ベリーハッピーよという人が、アメリカあたりにはいるらしい。ならなかったかもしれないのに」
p114「どうせ死んでしまうのだから、死ぬ前に、楽しみたい。楽しむだけ楽しんだら、人生に用はない。だとしたら、サルである。死の何であるかを考えることもなく、ひたすら快楽を追求するための動物的生存である。と言ったら、動物に対して失礼である。動物は動物の仕方で、真摯な生存を全うしているのだらかである」
p116「現実に存在している技術は使いたくなるのが人情で、使うなと言われれば、いよいよ使いたくなるのも決まっているからである」
p118「人生が価値があるのは、それが一回的だから価値」
p130「それならばなぜ、生きていると先にわからなかったのか。彼らには、死んでいるということも、実はわかってはいなかった」
p137「むろん悪くない。いや正確には、人は自分が善いと思うようにしか生きられない。だからこそ、それを善いとしているその「自分」の何であるかが、問題なのである」
p142「仮に、宗教の目的を死の恐怖の超越にあるとするなら、それは完全に個人の問題である。死ぬのは自分でしかないからである。誰か教祖の言うことを聞くにせよ、それは自分ひとりでしかできないことのはずである。集団になって為されるべき性質のことではない。なのに、古来ほとんどの宗教は、この「教団」という形態をとる。信者を増やすことがその目的になるのなら、完全な本末転倒である。この世で信者を増やせば、あの世で救われると教えるのかもしれない。つまり、救われないかもしれないことへの恐怖は、少しも超越されていないということだ」

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