« 2014年9月 | トップページ | 2014年12月 »

2014/11/15

『ほんとうの花を見せにきた』/桜庭一樹

4163901272 ほんとうの花を見せにきた
桜庭 一樹
文藝春秋  2014-09-26

by G-Tools

この1,2年、深み・読み応えのある小説とはどんな形態だろう?という疑問が頭の中にずっとあって、それは『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んだあたりから。外国の近代名著も長年並行して読んできたけれど、分量が膨大というのと、書かれた時代のバックボーンやそもそも文体・言い回し・修辞が直感的に分からないことも多いというので、なかなか読み進められないということが増え、読書の時間があまり取れない中、それでも読書を続けたいという気持ちを整理して考えると、現代は過去に比べると読書、とりわけ小説にかけられる時間が少なくなっているのは紛れもない事実で、現代でもバブル前後のように、これでもかという具体的な比喩・固有名詞の多様でリアリティを醸したり、ト書き満載で情報過多で世界観を表現したりする形態は、読書好きの支持を得にくくなってくるんじゃないかなと思っていました。それがどんなに豊饒な作品でも、500ページもあるとちょっと腰が引けるというか。それを読ませられるのはそれこそ村上春樹くらいの一握りのビッグネームだけじゃないかと。そのビッグネームがあんなに読みやすい『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を出し、立て続けに『女のいない男たち』を出した。私は「5分でわかる名作古典」的なダイジェストや、何でもかんでも時短する傾向は性に合わないのですが、分量による深みというのは小説に取ってはだんだん主流でなくなっていく形態じゃないかなと感じていました。

だからと言って、音楽のように、ストリーミングとか定額聞き放題とか、あれはあれで悪いことではないんですけど(そしてamazonがとうとう書籍でも始めましたけど)、ああいった「単位を細分化して回転で稼ぐ」という方向ではなく、小説の「深み」を出すための十分な時間がかけられた作品をこれからも読みたいと思っていたとき、日経の書評で知ったのが本作でした。

「読了にかかる時間を現代の許容範囲に収めつつ、十分に練られた深さを味わえる」形態として、本作のような「寓話」形態が最有力と思えました。本作は、中国古来のおばけ「バンブー」に関して事細かく描写を重ねてリアリティを生み出すということは全然なされてないけれど、バンブーの住む物語を受け入れて読んでいける。僕が今まで読んできた現代の「寓話」作品は、一言で言ってしまうとあくどくて単純で「子供向け」の設定で読ませることで純粋さを無理矢理受け入れさせようとするものばかりだったけれど、本作はそういったあくどさは感じません。泣けると思います。

それにしても、小説は時間との兼ね合いで分量の模索が続く中、時短の主役だったITはコンテキストにフォーカスが当たるなんてなんて皮肉、と思いましたが、小説は分量を模索しているだけであってコンテキストを更に深くしているのだと思いました。ITはいつまでたっても文学には追いつけないでしょう。

  

続きを読む "『ほんとうの花を見せにきた』/桜庭一樹"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014/11/03

『それでも猫は出かけていく』/ハルノ宵子

4344025741 それでも猫は出かけていく
ハルノ 宵子
幻冬舎  2014-05-09

by G-Tools

吉本家の人々の手による作品を読むときはいつもそのテーマに対する徹底具合が別格だなあと思うのですが、本作も「猫」に対する徹底具合が尋常ではないです。端から「メチオニン製材」とか、世の猫飼い主はみなこの程度のこと普通に知っているの!?と慄くくらいディープな固有名詞がずらずらさも「当たり前」的に登場して圧倒されます。が、吉本家の人々の作品が「違うなあ」と思うのは、それを「高慢ちき」な感じで振り回しているように感じられないところです。専門用語やト書きの多い作品というのは、その情報量で深みが感じられる作品もある反面、どうにも「高慢ちき」なだけの作品のほうが多かったりしますが、吉本家の作品がそうでないのはそこに思慮深さがあるからだと思います。

「家の間を通られない権利?花壇を汚されない権利?自分の持てるあり余る権利の内、ちっぽけな最後の一片まで行使するために、弱い生き物の生きるというたった一つの権利さえも奪い取る」(p37)や、「孤独死が問題にされたり、病院でなく家で死ぬためにはーなどと、そろそろ自分の身体がアブナクなってきた”団塊の世代”が言い出した昨今の生ぬるい風潮に、父はまた最期に、見事に水をぶっかけて逝っちまいました」(p187)等、感銘を受ける文章だらけなんですが、いちばん印象に残った章をひとつあげるとしたら「その27 旅の途中」(p120)です。

京都の友人に外猫の「太郎くん」を譲り受けた女性が、東京に戻ってきてその太郎くんを逃がしてしまった、という話で、太郎くんは京都に向けて西へ西へ進むだろう、という予想で、

「京都までおよそ600キロ。1日数百メートル移動したとして約3年。/途中居心地の良い土地があれば、何か月も留まったり、その地で”彼女”と出会って何年か過ごしたり…。そうしていつか京都のことなど忘れてしまうのでしょう」

僕は人生を「旅の途中」と旅に例えるのにぼんやりとした嫌悪感を若い頃から抱いてきてたんだけど、この「太郎くん」の話で非常にしっくりきたことがあって、「旅」というのは予定変更が許されるのが「旅」なのだということ。出発地点と経過地点と到着地点が決まっていて計画通りに進むことは「旅」とは言わないのだということ。だからいつか京都のことなど忘れてしまったとしてもそれは酷いことではなく、人生とはそういうものだということ。

弱いつながり』で旅について考えたことと再びシンクロ。数十年という時間をかけて、少しずつ「旅」を好きになってきている自分を認めつつあります。

続きを読む "『それでも猫は出かけていく』/ハルノ宵子"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2014年9月 | トップページ | 2014年12月 »