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2015/03/07

『沈黙』/遠藤周作

4101123152 沈黙 (新潮文庫)
遠藤 周作
新潮社  1981-10-19

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フェレイラの棄教の理由について。直接的には拷問を受ける信者が、自分が棄教しなければ助からないという状況において、神に祈ったものの沈黙を通されたので棄教したと言っている。その一方、フェレイラは日本人の基督信仰において神は教会の神ではなく、日本人の都合のいいように屈折させられた別物の神であり、日本には基督教は根付かなかったし根付きようがないと言っている。しかし、信者およびフェレイラが拷問を受けるような状況に陥ったのは日本人が基督教を正しく理解しなかったからというよりは、日本の権力側政治側の都合の問題で、信者がどのように信じていようとも起きた拷問だったと言える。そう考えると、フェレイラの棄教に至る心境のプロセスは認めがたい。日本の信者の基督教が協会の基督教と異なると言い切るのであれば、信者の拷問に呵責を覚える必要はない。拷問を受けているのが信者であろうとなかろうと自分のせいであるならば救わなければならないというのであれば、棄教を選ぶことに躊躇いはないはず。フェレイラの日本における基督教の屈折化の説明は、とてもいい訳じみて聞こえる。

確かに、日本人は命を賭してまで守らなければいけない「信条」といったものをあまり持たない国民ではないかとは思う。ロドリゴは最後まで殉教について悩んだけれど、それは神が絶対だからであって、「神に祈る」という言葉の重さ自体、基督教信者と私との間ではとんでもなく大きく開いている。それでも、命を賭してまで守るものがあることが是か非かというのはとても注意して考えなければいけないことだと思う。それによって自分の命も他人の命も粗末にすることが、誰かの幸福につながることが決してないと思うから。

p64「人の前にて我を言いあらわす者は、我も亦、天にいます我が父の前にて言い顕わさん。されど人の前にて我を否む者は我も亦、天にいます我が父の前にて否まん」

p64「仏教の坊主たちは彼らを牛のように扱う者たちの味方でした。長い間、彼等はこの生がただ諦めるためにあると思っているのです」
p83「それは神の沈黙ということ」「神は自分にささげられた余りにもむごい犠牲を前にして、なお黙っていられる」
p112「彼は自分が司祭だとわざわざ名のり出たのです。この人の一時的な興奮のために、その後、他の司祭たちがいかに潜伏しにくくなり、信徒たちが巻き添えをくったか」
p117「基督が食卓でユダにむかって言われた「去れ、行きて汝のなすことをなせ」」
p171「正はいかなる国、いかなる時代にも通ずるものだから正と申します。ポルトガルで正しい教えはまた、日本国にも正しいのでなければ正とは申せません」
p192「それに醜女の深情けと申す言葉が気に障られるならば、こう考えてもよい。子を生みそれを育てられぬ女は、この国では不生女と申して、まず嫁たる資格なしとされておる」
p198「日本の役人や奉行がほとんど何もせず、蜘蛛が巣に餌のかかるようにじっと待っていたものは、自分のこうした気のゆるみだったのだと司祭はそのとき初めて気が付いた」
p208「行為とは、今日まで教義で学んできたように、これが正、これが邪、これが善、これが悪というように、はっきりと区別できるものではなかった」
p213「井上筑後守はこの身勝手な理想を醜女の深情けにたとえた」
p216「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」
p231「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった」
p223「だが聖ザビエル師が教えられたデウスという言葉も日本人たちは勝手に大日とよぶ信仰に変えていたのだ。陽を拝む日本時にはデウスという大日とはほとんど似た発音だった」「デウスと大日を混同した日本人はその時から我々の神を彼等流に屈折させ変化させ、そして別のものを作り上げはじめた」
p236「日本人は人間を美化したり拡張したりしたものを神とよぶ。人間と同じ存在を持つものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない」
p253「司祭の心に運んできた。両手を握りしめて彼はあ、あっと大声で叫ぶ。すると恐ろしさは引潮のように去っていく。それからまた押し寄せる」
p272「あなたたちは平穏無事な場所、迫害と拷問との嵐が吹きすさばぬ場所でぬくぬくと生き、布教している。あなたたちは彼岸にいるから、立派な聖職者として尊敬される。激しい戦場に兵士を送り、幕舎で火に当たっている将軍たち。その将軍たちが捕虜になった兵士をどうして責めることが出来よう」
p288「仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもならぬ己の弱さに、衆生がすがる仏の慈悲、これを救いと日本では教えておる。だがそのパードレは、はっきりと申した。切支丹の申す救いは、それと違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。

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