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2020/05/04

『中動態の世界 意志と責任の考古学』/國分功一郎

書かれていることはけして簡単なことではないけれど文章は非常に明瞭で読み進めるごとに理解していくような充実感があるのに、いざ自分の言葉で説明しようとするとほとんど何もうまく説明できない。高度なことをクリアに理解できている人ほど高度なことを平易な言葉で語るという自分の経験則があって、この本は正にそれだと思う。自分のものにできるまで読み続けたい。

責任とは何か。現代の世の中では基本、自分がやりたいと思ってやったことには責任がある、としている。その「自分がやりたいと思ってやった」というのを自らの「意思」で、という言い方をする。でも、「意思」とは何か?という問題設定はほとんど見かけない。それくらい、「意思」の存在が当たり前で、それは「やりたいと思ってやること」は「能動的」で、その対が「受動的」というのが当然の言語で暮らしているから行為はすべからく「する」と「される」に分けられるけど、そもそも言語は起源から能動態と受動態を持っていたわけではない、というところから話が展開する。自分の中でのキーはかつあげの話で、かつあげされてお金を渡した人は、脅されたとは言え自分からお金を出している、自分からお金を出しているということはそれは自分の「意思」でお金を渡したのだから現代風に言えば自分の「責任」、ということになる、けれどもそこに引っかかりは感じないか?というところを綿密に掘り下げていく。

能動性は主体性とイコールではなくて、能動性は主体が蔑ろにされている(されていた)。

最初に驚いたのはこの内容の本が、「医学書院」という出版社から出ていること。「シリーズ ケアをひらく」というシリーズであったこと。その謎は前文ですぐ解けるんだけど、この前文は「意思」というものをいかなる角度から捉え直せばいいかの雰囲気を的確に掴ませてくれて非常にありがたかった。

 

 

p5 ――ああ、たしかにいまは日本語で話をしているわけだけれど、実はまったく別の意味体系が衝突してい る、と。僕なんかはその二つの狭間にいるという感じかな。 「そうやって理解しようとしてくれる人は、時間はかかっても分かってくれる。けれども、まったく別 の言葉を話していて、理解する気もない人に分かってもらうのは本当に大変なのよね......」
「僕なんかはお話をうかがっていると、むしろふだん見ないようにしている自分が見えてくる感じがし ますけどね。だから、別世界の話とは思えない。けれどもそれが別世界の話じゃないと理解するのを妨げ

現代の脳神経科学が解き明かしたところによれば、脳内で行為を行うための運動プログラムがつくら れた後で、その行為を行おうとする意志が意識のなかに現れてくるのだという。
脳内では、意志という主観的な経験に先立ち、無意識のうちに運動プログラムが進行して もそれだけではない。意志の現れが感じられた後、脳内ではこの運動プログラムに従うとしたら身体や 世界はどう動くのかが「内部モデル」に基づいてシミュレートされるのだが、その結果としてわれわれ ま、走行こはまだ身体は動いていないにもかかわらず、意志に沿って自分の身体が動いたかのような感

熊谷晋一郎の表現を借りれば、「私たちは、目を覚ましているときにも内部モデルという夢の世界に 住んでいる」。われわれは脳内でのシミュレーションに過ぎないものに、自分と世界のリアリティを感 じながら行為しているということだ。

言語と思考の関係を定義したこの定式は、哲学史においてカントが成し遂げた転回にもなぞらえうる ものであった。いまわれわれは言語と思考の関係を社会や歴史のなかで考えるという、ある意味では当 たり前の出発点に立っている。 「中動態の存在と意志概念の不在は、古代ギリシアに見出される同時的現象である。前者が後者を直接 にもたらしているわけではない。しかし、言語が思考の可能性を規定するのだとすれば、そしてまた、 その規定作用は社会や歴史といったもののなかで展開するのだとすれば、そこに何らかの関係を見て取 ることはできよう。

アレントによれば、アイヒマンについて言いうる唯一の特徴は、「何も考えていない thoughtlessness」 だった。そのような「消極的な性格」しかもたない人物が大虐殺に荷担した。アレントはこの事実に衝

暴力は抑え込み、権力は行為させる

フーコーの権力論はそれまで支配的であったマルクス主義的な権力観を一変させたと言われている。 これは、フーコーが権力を抑圧によってではなく、行為の産出によって定義したことによるものだ。
ごく大雑把に言うならば、マルクス主義的な権力観においては、権力は「国家の暴力装置」と同一視 されていた。暴力を独占している階級や機構が大衆を抑えつけている、その有り様がボンヤリと「権力 の行使」と名指されていたのである。 それに対しフーコーは、権力は抑えつけるのではなくて、行為させると考えた。 たとえば工場で労働者が、軍隊で兵士が、学校で生徒が、然るべき仕方で行為させられている。その 意味で権力は、「抑圧」のような消極的なイメージでは捉えきれないのであって、「行為の産出」という 積極的なイメージで語られねばならないというわけだ。

まず、すでに見た“to be born” のように、中動態が存在しないため、自動詞の意味でありながらも受 動態を用いなければならない表現があることを再確認しておこう。"I am married to her”(私は彼女と結婚し ている」や、Tam engaged in political activities"私は政治活動に携わっている)、“The ship was wrecked[船が難破し た、“The soldiers were wounded 〔兵士たちは負傷した」など。これらはラテン語のデポーネンチアと同じく、 中動態の痕跡と見られるべきものである。

意志しようとするとき、人は過ぎ去ったことから目を背け、歴史を忘れ、ただ未来だけを志向し、何 ごとからも切り離された始まりであろうとする。そうして思考はそのもっとも重要な活動を奪われる。 アレントがわざわざドイツ語で――しかも接頭辞を強調するためにハイデッガー風にハイフン付きで ――記した Andenken、すなわち回想を奪われるのだ。 「意志は絶対的始まりでなければならないが、絶対的始まりはありえないというパラドクスの帰結が、 ここではこのうえなく簡潔に述べられている。意志によって絶対的始まりとなることなどできない。に もかかわらずそれを求めるならば、人は過ぎ去ったことの回想を放棄する他ない。そして、何ごとかを ボンヤリと忘れていくこととは比較にならない「最も深い忘却」とは、回想しないことなのだ。 ハイデッガーはつまり、意志することは忘れようとすることだと述べている。

意志することは憎むこと

それだけではない。『思惟とは何の謂いか』はさらに次のようにすら述べる。
意志することはただ未来のみを志向する。だが、一切の「在った [es war]」こと、すなわち過ぎ去っ た過去をどうにもできない。したがって、「在った」はすべての意欲にとって躓きの石となる。それは、 「意志がもはや転がしえない当の石である。こうして「在った」は、あらゆる意欲の悲哀の種となり、歯 「軋りの種となる」。
一言で言えば、意志は過ぎ去ったこと、あるいは歴史に対して「敵意 Widerwille」を抱くことになる。

スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その 本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。ならば、自由であるためには自ら を貫く必然的な法則を認識することが求められよう。自分はどのような場合にどのように変状するの か?その認識こそ、われわれが自由に近づく第一歩に他ならない。だからスピノザはやや強い言い方 で、いかなる受動の状態にあろうとも、それを明晰に認識さえできれば、その状態から脱することがで きると述べた。 「自由と対立するのは、必然性ではなくて強制である。強制されているとは、一定の様式において存在 し、作用するように他から決定されていることを言う(同前)。それはつまり、変状が自らの本質によっ てはほとんど説明されえない状態、行為の表現が外部の原因に占められてしまっている状態である。 「人は必然的な法則に囚われたときに不自由となって強制の状態に陥るのではない。自らの有する必然 的な法則を踏みにじられているときに強制の状態に陥る。だから自由や強制は変状の質の差として考え られねばならないのである。
いまわれわれが「必然的な法則」と呼んだものは、具体的にはわれわれ一人一人のなかで働くコナ トゥスの作用にかかわってる。コナトゥスまわれわれ一人一人の構成と相関関係にあるのだった

だからこそ、歴史上のある要素がその他を圧 倒するほどに強力に作用し、もはや選択の自由など認めないという事態に注意を払うことができない。

「人間は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとではなくて、 すぐ目の前にある、与えられた、持ち越されてきた環境のもとでつくるのである」。 「マルクスのこの有名な一文は実に見事な文学的表現である。もしこの一文が、「人間は自分自身の歴 史を思うが儘につくっているわけではない」という表現であったならば、その意味するところは台無し である。「人間は自分自身の歴史をつくる「Die Menschen machen ihre eigene Geschichte)」に、「だが、思う儘にで はない「be so machen sie nicht aus freien Sticken)」と言葉が継がれているからこそ、人間が歴史をつくってい るとも、それを強制されているとも言いきれない様が見事に表現されているのだ。

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