2010/01/03

Goodreadsで蔵書録

Goodreads蔵書録はやっぱりちゃんと管理しようと思って、
検討の結果Goodreadsにしてみた。
やっぱりワールドワイドなほうがよいかなと。

驚いたのはimport機能!
特にそれ専用に整形したファイルを準備する必要はまったくなくて、
ISBNが記載されてそうなサイトURLを指定すれば、それを抽出して登録してくれる。
おかげで、読んだ本を登録してるサイトURLを何個か指定するだけでだいぶ自動的に登録できた。

ただ、蔵書管理ってなんのためにやるかというと、
「あの本持ってたよなー」という探し出しのためと思うんだけど、
ウェブサイトじゃあそれってほぼ無理なんじゃないかなと。
やっぱり物理的な本棚がいちばんかなと。
どうだろう?

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2009/11/08

手を出さない

どうやら僕は、そのときどき、自分にないものを求めて、本を読んでいるらしい。

だから、手を出していないタイプの話というのは、そのときの僕には間に合っていることが書かれてる。

実際には読んでないわけだからほんとに間に合ってるかどうかはわからないけれど、
「こんな物語ですよ」と薄々わかる情報でもって、
「あ、それ間に合ってる」と思ったら手を出してない、ってことに気づいた。

ずっと自分では逆だと思ってた。
間に合ってないけど、自分ではそれは苦手だから手を出さない、と。
まさか間に合ってるから手を出してないとは思わなかった。

ふつう、人は未知に興味を持ち、未知をわかるために本を読んだりするから、全然変なことじゃない。

そうか、僕が手を出さないのは、間に合ってるからなんだ。

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2009/05/05

『ベスト・オブ・谷根千-町のアーカイブズ』/谷根千工房

4750509019 ベスト・オブ・谷根千―町のアーカイヴス
谷根千工房
亜紀書房  2009-01

by G-Tools

 谷中・根津・千駄木の頭文字を取って名づけられた地域雑誌『谷根千』のアーカイヴ。

 一度だけ、出張のついでに谷根千を散策してみたことがある。そのときは、インターネットで何かを調べていてたまたまこの「谷根千」と呼ばれる地域のことを知り、たまたま出張先が近かったので立ち寄ってみた。確かに同じ山の手線内とは思えない風情を見たのを覚えてる。  

 結局、この『ベスト・オブ・谷根千』は、読みきれないまま返却期限を過ぎてしまい、慌てて返却した(ちなみに催促の電話をかけてきてくれた図書館職員の方は、留守電に吹き込む際、「ベスト・オブ」まで読んだところで次が分からず絶句してた)。返却前にパラパラと捲ってみたら、例によって、今関心を持ってる事柄に関連するページにドンピシャで出くわしたのでコピーしておいた。

p292「愛しの自筆広告 山﨑範子」
「雑誌は購読者と広告主が支えだから、「毎号欠かさず図書館で借りて読む」人より、「とりあえず出ると買っては親戚に送る」人に感激する。一万円の純利益を出すためにいったい何冊の『谷根千』を売ればいいの。その点、広告代をくださる方のありがたさ。すでになくなった店を広告でみると、その昔、婦女新聞の広告を眺めた時のことを思い出す。」

余りにもありてい。余りにもリアル。ここには「何のために雑誌やってるの?」という本質的な問いが付け入る隙はない。まず、創れてナンボ、なのだ。

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2009/05/04

ダーリンコラム 1999-08-30-MON <忌野清志郎は好きなんだけど>

「関心空間」に書いた文章なんだけど、我ながらあまりにもうまく書けたと思ったので、転記転記。

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僕は、実は「ほぼ日」はほとんどチェックしていない。糸井重里に、あまり染まりたくないからだ。
僕ぐらいの年代の人は、糸井重里とその作品に、多大な影響を受けている。
なので、いくらでも糸井重里テイストを好めるし、染まれる。
それがどうも好きじゃなくて、敢えて遠ざかってます。

翻って僕は、言うほど、忌野清志郎をリスペクトしたりもしてません。
どちらかと言うと、僕らくらいの世代っていうのは、既に、
忌野清志郎は、パンクで言う「破壊すべき体制・対象」の側になっちゃってたと思う。
「キヨシローがやってるんだから、オーケーだ」という「型(カタ)」が出来上がっちゃってた。

良し悪しを無視して、「既存」は遮二無二ぶっ壊しにかかるのが、僕らの時代のパンクだった。

でもって、確か高校三年か大学入りたてかの頃、
忌野清志郎のことを、育ちが良くて結局安全地帯から攻めてるだけでインテリゲンチャと変わらない、
というような記事を読んで、多少の共感を覚えたことを思い出し、
そういう文章はないかなあ、とネット検索してみたら見つかったのが、これだ。

驚くべきことに、糸井重里が、きちんと批判していた。
http://www.1101.com/darling_column/archive/1_0830.html

僕は、キヨシローが言う「ロック」の部分に関しては、
この糸井重里の批判が完膚なきまでの的確さだと思う。
1999年以降の、キヨシローの活動の詳細は良く知らなくて、
fm802キャンペーンの『Oh ! RADIO』は素直にいい作品だと思ったけれど。

ロックであれパンク(ロック)であれ、その魂とセンセーショナリズムとは全然違う。
「社会で生きていく」ことと「パンク」は両立しないかのような思い込みが僕らにはどうしてもあるが、
「既存」を遮二無二ぶっ壊しにかかるのは、
「パンク」がどうしてもやり遂げたいことをやり遂げるために、
それが最善だと思ったときに取りうる選択肢のひとつなだけであって、
やり方は他にいくらでもあるし、他のやり方でやったってそれはもちろん「パンク」なはずだ。
奇天烈なことをして唾を吐くのが「パンク」じゃない。
若い世代というのはいつだって柔軟で、
「メロコア」なんて、立派なパンクの一手段じゃないか。

僕は、糸井重里も忌野清志郎も信奉したりはしていない。
それぞれに、好きなところも好きじゃないところもある。
だから、「僕はこう思います」と言えることが大事だし、
誰にだってそういうことが大事だと思うのだ。
その意味で、やっぱり、糸井重里も忌野清志郎も大好きな人たちなのだ。

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『広告批評 No.336 2009.4 最終号』

4944079729 広告批評 336号(2009年4月号) (336)
マドラ出版  2009-04

by G-Tools

p014『アートとデザインのあいだ』
p020「話を聞いて掴めたときが一番クリエイティブな瞬間なんですか。」
→”デザイン”という行為のひとつの本質。クライアントとアートディレクターの関係。オーダーメイドの本質。ソリューションはオーダーメイドであり、そうである以上、「ソリューション営業」など成り立たない。「ソリューション営業」は欺瞞、というのは僕の現職でのひとつの信念。
p020「50年後のアートヒストリーが何を求めているかまでを考えて」(村上隆)
p021「アートのコンテクストにおいて現在なすべきことを僕が知っているからなんです」(村上隆)

p054『テレビとインターネットの未来』
p057「ちゃんと計れるから面白いものがきちんと評価されるのかっていうと、一概にそうだとは言えないんですよ」
p067「でも、上岡さんが引退されたのって2000年ですよね?」

p212『広告夫婦がゆく!!』
p213「初めてそういう物件に出会ったのが72年ですね。」(赤瀬川原平/トマソンについて)
p217「僕が作っている、サントリーBOSSの「宇宙人ジョーンズ」シリーズというCMがありまして」
p216「利休のことを勉強したのも、まったくそこからですね。歴史の勉強ってやったことなかったから。」(赤瀬川原平)

p220『ものをつくる、こころ。』
p222「大体気になる人に会うようにできてない?」(杉山恒太郎・電通常務取締役)
p223「そのためには歴史を知らないと絶対ダメ。新しいものは伝統の中からしか生まれないものなんです」(杉山恒太郎・電通常務取締役)

  

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2009/03/11

"正しく言葉で伝えれないものは、説明しないのが一番"

『海辺のカフカ』/村上春樹。
どこに出てきたか、ひっくり返して調べたい。

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2008/05/06

人格

 読書の目的は、善良を求めることではないし、正義を求めることでもない。けれど、善良を求めても良いし、正義を求めても良い。読書をすることによって、自分の幅を狭めるようなことがあってはならないだけで、自分の幅を広げ、かつ、様々なことを許容できるようになるのであればそれでいい。そういうことを、人格を高めるとか人格を豊かにすると表現すると陳腐でかつ「善良」「正義」を求めることと大差がないように聞こえてしまう。しかしながらこれ以上の言い方が見当たらない。

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2008/04/30

『monkey business』/柴田元幸

4863320086 モンキー ビジネス2008 Spring vol.1 野球号
柴田元幸
ヴィレッジブックス  2008-04-18

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 『野球のダイヤモンド、小説の輪郭』という、柴田元幸と小川洋子の対談で、小川洋子が「人間が決めた掟の中心に立って大きな声で喋れる人はいいけれど、それがどうしてもできなくて、隅の方で、私はここでいいんですと佇んでいる人たちの、声にならない声を聴き取る」というのがとても良かった。印象深い。
 世の中がどんどん声がデカいもん勝ちみたいになってきてて、しかもそれがいいことなのか悪いことなのか振り返って考えてみようともしない、声出さないヤツが悪い、そんな風潮で、なんとなくそれはそうだなあと流されてきていたけれどやはりそれは何か間違っているという漠然とした感覚はある。それを、きちんと「それは間違いです」と言い切るだけの言葉を獲得していくのが、自分の読書をする理由だと思ってる。 

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2008/01/05

ノブレス・オブリージュ

『SEのためのシステムコンサルティング入門』に登場したので調べてみた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%96%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5

ノブレス・オブリージュ (noblesse oblige) は、フランス語で文字通り「貴族の義務」あるいは「高貴な義務」を意味する。一般的に財産権力社会的地位には責任が伴うことをさす。一般的な用法ではないが、慇懃無礼あるいは偽善的な社会的責任について蔑視的に使われることもある。ノーブレス・オブリージュともいう。

”アメリカではボランティアに参加するのは当たり前”という点が興味を引く。
成金が自分のことしか考えなくなるのは日本だけなのだろうか?

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2006/10/06

小手鞠るいファン発見

一通り仕事が終わって、岡山駅地下の書店を覗いてたら、
平積みの棚に近づいてきたいかにも今時の女子高生と思しき
女の子が、一緒にいた彼氏と思しき男の子に、
『エンキョリレンアイ』を指差しながら

「わたし、この人の本好きーコデマリルイー」

彼氏は「ふーん」くらいで行っちゃったけど、
小手鞠るい、結構若い世代にも読まれてるのかなー。

小手鞠るい、今お気に入りの作家なので嬉しかったです。

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2006/10/02

立ち読みのススメ!(日本経済新聞2006年10月2日朝刊5面「インタビュー領空侵犯」)

 日本経済新聞2006年10月2日朝刊5面「インタビュー領空侵犯」に、湯川れい子氏の「立ち読みが国を滅ぼす」という記事が掲載されてる。

国を挙げて日本のマンガなどの文化を世界に売り込もうとしているときに、このまま立ち読みを許し続ければ、だれも良いものを出そうとしなくなる。次世代の才能は育たず、日本の文化は衰え、国の力が低下してしまいます。

 立ち読みってそんなに行けないこと?そりゃ確かにあんまりいいことじゃないけれど、どうも「そんなに目くじら立てなくても」感もあったのでちょっと考えてみた。

 なんで立ち読みするかっていうと、大抵は買うほどじゃないと思ってるからだ。もうちょっと積極的な理由は、面白い内容かどうか確かめてみる場合。本一冊買うのだって雑誌一冊買うのだってお金が掛かるんだから、誰だって普通慎重になる。雑誌一冊だって、吊り広告で見た気になった記事だけ読めればいいってときは大抵立ち読みするんじゃないか。

書店やコンビニエンスストアで立ち読みして買わずに済ませたら万引きと同じ。

まずは手にとってもらい最後は買ってもらおうという狙いでしょうが、

 一般書籍とマンガと雑誌、書店とコンビニを同列で考えるのは難しいかも。湯川氏の論点は先に引用した通り、「立ち読みは国家的な財産侵害」ということだけど、例えば雑誌とコンビニという組み合わせだと、雑誌の立ち読み客がついでに小口物品を購入することを計算に入れてコンビニ側は商いしてて、当然そこに雑誌を卸している出版社側もそんなことわかって卸してる訳だから、そこには経済的にはなんも問題ない。そんなこと知らず卸してる出版社があったとしたらだいぶお間抜けだ。
 マンガは確かに最近どこの本屋に行っても特に単行本は立ち読みできないようにビニール閉じされてて、ここまできっちり立ち読み防止しているから作家の権利保護が図られこれだけ巨大産業に発展したという言い方ができるかも知れないけど、単行本は単行本になる前に週刊本・月刊本で連載されてるよね。あれは単価が安いからみんな買って読むと思う。本屋によっては月刊本で立ち読みできるし。つまり、ちゃんと「内容お試し」の機会があるってことだ。
 思うんだけど、文化というのは裾野を広げないと絶対に発展しないし隆盛もしないし向上もない。確かに一部の優れた秀でた人間だけで磨き続けていくようなタイプの文化もあるんだろうけど、ここで湯川氏が俎上に上げているのはそういった類の文化ではないでしょう。なんたって「立ち読み」に物申すくらいだから、広く国民に広まるような文化としての書籍を考えていると思う。であれば、裾野を広げるためには、単価を下げるか、お試しできるかという、「触れる」機会を増やすことが重要だと思う。
 で、小説は残念ながらあんまりそういう機会がない。おまけに単行本は高い。だから単行本が文庫本になるのを待ったりするし、新刊でちょっと興味を引かれたりしたら手にとって立ち読みして内容を確かめたりするのだ。そりゃ新刊をジュンク堂のような「座り読み化」の店で読破してしまう猛者もいると思うけど、そこまでして時間かけて立ち読みする人はそれはそれで相当の文芸好きで、買いたい本は買ってると思う。そうじゃなくてもそういう人が文芸という文化の担い手なのだ。
 文芸新刊もマンガと同じように文芸誌に連載されていたものが単行本になることもあるけど、マンガのように購入するケースは、よほどの文学好きじゃないと考えられない。それは価格とか通読に要する時間の問題とかもあるけれど、根本的には「文学を楽しめない」からだ。

 そう考えると、やっぱり「立ち読み」を云々するのは「小さいことに目くじら立ててるなあ」と思う。雑誌の立ち読みなんて、回転が速い分だけ買う人もいれば買わない人もいる。文芸本の立ち読みはそもそも完全にできやしない。

図書館で本を読む人たちと書店の立ち読みで済ませようとする人たちとは、本や雑誌に対する姿勢も認識もまったく異なると思います。

 そりゃ偏見ってもんだろう。どんな姿勢で本を楽しんだっていいじゃないか。ここには、「文化的なるもの」を優越的に見ようという傲慢な姿勢が見え隠れする。こういう権威主義的な姿勢こそが、文学の楽しさをダメにしてきた元凶であり、ひいては文学を楽しめないが故に書籍にお金をかけない空気が生まれてしまうのだと思う。

結局は一人ひとりのモラルに訴えるとともに、知的財産や著作権がいかに重要であるかを教育を通じて徹底するしかないのでしょうね。長い道のりですけど。

 そうじゃないと思う。同じ長い道のりを辿るのなら、文学や書物を楽しめるようにもっと言葉の力を磨く教育をするべきだと思う。根本的には活字を楽しめないから、活字を購入しようと思わないのだ。そこを抜きにして、権利やなんやを振りかざしても魂が入らないではないか。そんなのは生産者側の理屈だろう。文化ってのは、そういう生産者側マーケティングからいちばん遠いところにいて、そうじゃなきゃ衰退するっていちばんよくわかってるエリアじゃないの?

 ほら、湯川氏の本領である音楽業界だって、今じゃどこのレコードショップだって視聴機置いてるし、ネットで視聴もできるし、レンタルもできればネットで安価に購入だって出来るじゃないか。書籍は確かに図書館でレンタルできるけど、それ以外にもっとやることがあると思う。それを忘れて「立ち読み」なんてのに目くじら立てるなんて、小さい小さい。

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