『シンプリシティの法則』/ジョン・マエダ
なんでもシンプルなほうがいいと思っていて、提案書でも何でも物量で攻めるのをちょっと見下しているので、「シンプリシティの法則」というのが、僕ごときが思うようなシンプルを遥かに超えてどこまで徹底されているのだろうという期待で読んだ。次は、このシンプリシティを使って、様々な局面で勝たなければならない。
なんでもシンプルなほうがいいと思っていて、提案書でも何でも物量で攻めるのをちょっと見下しているので、「シンプリシティの法則」というのが、僕ごときが思うようなシンプルを遥かに超えてどこまで徹底されているのだろうという期待で読んだ。次は、このシンプリシティを使って、様々な局面で勝たなければならない。
奈良県立図書情報館の乾さん が、『不可思議な日常』を真面目に読んでくれたので、ということで、特別に送ってくださった『遠いつぶやき』。乾さんが編集を担当されたということで、正直「編集」という作業がどういう作業なのか未だに実感できていないけれども、これは初回はまず一気に読んで全体的な感想を持って、それからひとつひとつを丁寧に読みたいなと思い、頂戴したのがGW連休前だったので、まず連休中に時間を取って一気に読み終えました。
読後感で頭に残されているもので一番大きなものは、「道筋立てることの虚しさ」みたいなもの。私はシステムエンジニアとしてお客様に提案をする仕事をしているので、原則ロジカルに筋道を立てた説明が必ず必要となる仕事をしています。池上さんの書かれたものというのは、『不可思議な日常』を読んだときも感じたことで、他の哲学者の書かれたものに比べて、筋道の積み上げ型が丁寧で細かくて強固に感じます。他の哲学者(特に海外のーそれは翻訳でしか読めないからかも知れませんが)のは、生み出したこれまでにない新しい「概念」に寄りかかるというか、誰でもわかる言葉で積み上げた結果、説明しうる一つの結論に辿り着く、という印象に薄いのです。池上さんの文章は、およそ誰でも理解できる言葉とロジックをこつこつ積み上げる思索を追うことができるのですが、そういうスタイルというかプロセスというか、それを最近の世の中があまり聞く耳を持とうとしないように感じていることを逆に思いださせて虚しさを覚えるのでした。私の仕事でも決してロジカルであることでお客様が受け入れてくれる訳ではないですが、その程度が年々ひどくなってきている気がします。何か「飛び道具」を求めているというか、いつの間にか日常語になってしまった「サプライズ」がないといけないというか。それも確かに認めないといけないのですが、そこもバランスと程度があると思うのです。そしてシステム提案についてだけでなく、日常生活においても、筋が通っていることを許容しようとしない空気が蔓延しています。どれだけ感情的に受け入れづらくても、筋が通っている以上いったん腹に落とさなければいけない、という、「大人の姿勢」というのはどんどん忘れられていっているように思います。池上さんの書かれた文章の背景は、そういうものを浮き彫りにします。
この読後感を大事にしながら、今度はひとつひとつをじっくり読んで考えてみようと思います。
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不可思議な日常 池上 哲司 真宗大谷派宗務所出版部 2005-05 by G-Tools |
「一瞬の映像」
ここ最近、落車や事故が重なっている。それでふと、何かあった時の瞬間ってこういう感じだろうか、と想像してみることがある。特に先日事故にあった瞬間は動画で記録していたこともあり、繰り返し見て想像している。そうこうするうちに慣れていくので、落車や事故は痛いものだけれども役に立つところもあったと思う。その一方で、転倒したりするときは映像がゆっくりになるとよく言うが、最近、あまりそうでもなくなり、記憶もそれほど明瞭ではなくなってきた。これはたぶん、あまりによく転倒して珍しいことではなくなってきたので、緊急感が薄れて、潜在的な視力が引き出されないようになったんじゃないかなと勝手に思っている。何でも慣れればよいというものでもないらしい。
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不可思議な日常 池上 哲司 真宗大谷派宗務所出版部 2005-05 by G-Tools |
「桜餅」
見返りを当て込んでの行い程、みっともないものはないと思う。自分がやるのも嫌だし、少ないにしてもやられるのも嫌なものだ。どのような人間関係においても、損得が頭の中にあって為される行いは、致し方のない面は認めつつも、それによって好悪が著しく変わることのないように気を付けている。ビジネスにおいても、特に「日本的」と言われる、売れる・売れないに関わらない長期的な関係によって信用を図るという慣習があり、外資系の風習としては、利益の上がらない長い期間を過ごすよりも、その間にわずかでも利益の上がる関係を優先するという思考がある。それはあくまでビジネスの上の話だからという言い方もできるけれど、人間の生活というのは基本的にはビジネスの上と差はないと思う。だからこそ、見返りを念頭にしないという行動様式が意味を持つ。
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不可思議な日常 池上 哲司 真宗大谷派宗務所出版部 2005-05 by G-Tools |
「ヤ行上二段」
老ゆ悔ゆ報ゆ。これからの自分の戒律にしたいくらいの連語だと思う。老いたものは家族の負担となるが、その負担を乗り越えるための発想は、自分もこの先老いるから、という発想ではなくて、老いを丸ごと受け入れ肯定するのだ、という著者の訴えは全くその通りだと思う。これは似ているようで全く違う。単なる思考の省略のように一見見えて全然違う。何かの役に立つことだけが存在価値なのか、という問いに対しても著者は答えを述べている。常に何かの役に立つことを求められるような企業という存在や、社会起業なんて言葉が市民権を得るくらい「有用」を求めてくる社会に住んでいるとそれはなかなか難しいことだけど、僕は、自分に当てはめられる価値観を、他人には強制しない、というところまでいかないといけないと思っている。
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不可思議な日常 池上 哲司 真宗大谷派宗務所出版部 2005-05 by G-Tools |
「閉じ込められた時間」
三つ子の魂百まで、をどうやって乗り越えるかを長い間自分の課題としてきたが、それは自分が非常に意地汚い性分なので、如何に自分を改善し成長するかに焦点を置いてきたから。そういった改善すべき人間性を改善することはもちろん続けなければいけないものの、そればかりに意識を向けることによって、自分の持つよいところを伸ばす、という意識が足りなくなることもあるというのが、この年になって判ったことでもある。そういう意味で、自分のなかの閉じ込められた時間を、単に懐かしんだり、それに捉われるのではなく、大事に扱う方法というものを覚えていきたい。
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不可思議な日常 池上 哲司 真宗大谷派宗務所出版部 2005-05 by G-Tools |
「トラーの納得」
自分も生家を売るという経験をしているので、著者の次女さんの気持ちが判る。自分は既に25,6歳になっていて、家を出て独立していたのだけど、寂しい気持ちがあった。小学5年生くらいまでの、たった5,6年の間、年にそう何回も来た訳ではない離れていた祖母とのその生家での思い出を思い浮かべていたのだ。父母はもともとその地の生まれではなく、念願かなって故郷に引っ越せるとあって喜び一辺倒に見えたのが自分の寂しさに拍車をかけていたのだと思う。我慢に我慢をしたが我慢しきれずその思いを述べたときの両親の態度に自分も納得することができた。
余談だが、あれはトラーじゃなくてティガーだと思うのだが、日本語版ではトラーというのだろうか?だとすると、ピグレットはなんて言うんだろう??
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CIOのITマネジメント (NTTデータ経営研究所情報未来叢書 1) NTTデータ経営研究所 エヌティティ出版 2007-12-25 by G-Tools |
この種類の書籍を読むのが難しくなったと感じた。内容的にはタイトル通り、CIOのITマネジメントについて網羅的に語られていて、タイトルを見て知り得ると思った内容は読めるけれど、これからCIOになるという訳ではなく、CIOがどのような業務を遂行しているのか、知識を増やし定着する目的で読もうとすると、あまり頭に残らない。それを、「実体験していないことは所詮定着しない」と実地主義で片づけるのは簡単だけどそれでは成長に限界がある。
もう社会人2、3年目くらいからずっと感じていることだけど、自分がコンタクトする相手との距離が、近すぎるか遠すぎるかのどちらかで、ちょうどよいということがない。極端に言うと、CIOと担当者、という二階層の組織に、世間がどんどん進行していったような感じがする。そこでCIOと会話をするためにはCIOを知らなければいけない、ということでこういった書籍を読むのだけど、確かにある程度知識は増えるが会話を伸ばす部分は微小。薄っぺらい知識で会話できるCIOにコンタクトすればビジネス上はある程度の成功を取れるかもしれないが、そういったことは目指すべきではないな、とこの種類の本を読むといつも自戒する。
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情報調査力のプロフェッショナル―ビジネスの質を高める「調べる力」 上野 佳恵 ダイヤモンド社 2009-03-13 by G-Tools |
プロのリサーチャーである著者が、「情報調査力」の磨き方について、物語風の表現を交えながら解説。マッキンゼーでコンサルタント相手にリサーチャーとして相対した経験が、一般的な情報調査力の解説書よりも話が深くなっている所以だと思います。
「常に問題意識を持って」ということの意味が、一つ深く理解できたと思います。
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不可思議な日常 池上 哲司 真宗大谷派宗務所出版部 2005-05 by G-Tools |
「自分の言葉」
言葉は必ず他人から与えられたもの。一方、流行語がなぜ発生するかというと、本質的に他人-自分よりも前の時代の人びとが引き継ぎで来た言葉言葉の意味形成が、同時代的に短期間で一気に形成されたというだけであって、他人から与えられる「言葉」の本質から何も外れていないとも言える。だから、流行語の意味・ニュアンスを、耳にしただけで的確に掴み取って的確に使えるほうが、言語に対する理解が深いということもできると思う。だから批判されるべきは、流行語を使うことではなくて、やはり、自分が何を考えたのか、考えているのかという、自分内部の言語と言語活動を持たないことだろう。
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不可思議な日常 池上 哲司 真宗大谷派宗務所出版部 2005-05 by G-Tools |
「沈黙ということ」
ここで書かれていることに全面的に賛成しようと思った時に、自分の中で「待った」をかける主義主張として、国際化社会の常識という形で言われる「説明責任」というもの。つまり、「言葉で表さなければ理解してもらうことはできない。沈黙に意味はない。」という考え方。この罠は、ひとつはビジネスにおける言葉と生活における言葉は実は違うのだということ、もうひとつは諸外国では「黙って頷けば判る」というようなコミュニケーションが存在しないということはないという、文学の実例があること、この二つが分かっていれば回避できる。
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不可思議な日常 池上 哲司 真宗大谷派宗務所出版部 2005-05 by G-Tools |
「式嫌い」
僕も形式的なもの、形式的が過ぎて形骸化しているものというのは子供の頃から苦手なほうだった。著者のように、それをただの苦手で済まさず、大切なものを大切にできなくなると考え、行動に移すところまでは徹底できなかったのが悔やまれる。そこまでラディカルになることが、よりよい結果に繋がるとまでは信じ切れなかったのだ。清濁併せのむ、というスタンスのほうが、よりよい結果に繋がると考えていたと言えば言い過ぎだけど、妥協というのはそういう側面もあると思う。ただ、今になって思うのは、今行動に移せば、青春時代のエネルギーを取り戻せるのではないかということ。また、今の自分は、昔ほど形式的を嫌っていない。それは、ビジネスの世界でも、判り切っていることを言葉にしなければならない意義を理解しているから。それが判り切ったことであっても、それを言葉にするという時間を使うことが、相手との相互理解のために必要なことということを理解しているからだ。
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驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく) 六車 由実 医学書院 2012-03-07 by G-Tools |
「民俗博物館」等で「民俗」という言葉を知っているだけで、「民俗」とは何か、考えたことがなかったので、「民俗学」というのも、判らないとは思わないけれどそれは何かと言われると答えられない、そういうものでした。図書情報館の乾さんのお勧めで購入。この本の面白さは、介護の現場での「聞き書き」で得られた話そのものの面白さと、「聞き書き」という行為そのものを巡る考察の面白さ、そして「介護」に対する社会制度も踏まえた上での主張、この三点。このうち、後者二点について。
著者は、「聞き書き」は「回想法」とは異なると明言します。「回想法」は、介護において、利用者(要介護者)の心の安定や、コミュニケーション能力の維持・向上を目的として行われるものです。利用者の能力向上という「目的」があり、それを実現する手段として生まれたのが「回想法」です。それに対して、介護民俗学の「聞き書き」は、まず、聞き手である民俗学者=介護者が、民俗情報を求めている立場であり、それを得る行為の結果として、利用者の心の安定や能力維持・向上になるという順序です。「利用者の心の安定・コミュニケーション能力の維持・向上」という成果は結果的に同じでも、その順序の違いは重要で決定的なものである、ということを著者はいろんな言葉で繰り返し語ります。例えば、「ケアする者とされる者は非対称である」という言葉。ケアは相互作用だけれども、ケアする者はケアに対して出入り自由であるのに対して、される者は出入りの自由はない。されなければ生命が脅かされるのだから。「回想法」の発想は、この非対称性に準拠しており、更に非対称性を強化する(要は、介護する方が「してやっている」立場で、介護される側は「してもらってるのだからおとなしく感謝しなさい」という立場)のに対して、「聞き書き」を旨とする介護民俗学の場合、聞き書きの時間はケアする者とされる者の関係性が逆転する(要は、介護する側が「教えて頂く」という立場になる)、これによって、「介護」の相互行為性が回復され、結果、「利用者の心の安定・コミュニケーション能力の維持・向上」がより成果が上がるものになる、と解釈できます。
この「双方向性」と「非対称性の解消」は、人間関係性での一つの「理想」だと思っていて異論はないのですが、これを実現するための困難さも容易に浮かびます。その一つ、「実際に、介護の現場で「聞き書き」をすることの時間的・精神的余裕の無さ」についても、本著では実践の過程が詳しく書かれています。
介護者としての実践だけでなく、介護者という個人の活動(と限界)を規定する社会制度面についても主張をきちんと書き込まれているところが本著の行き届いたところだと思います。掻い摘んでしまうと、「時間的・精神的余裕の無さ」の根本は、介護者の低賃金であり、介護者の低賃金を生んでいるのは、国民の意識が介護をその程度に低く見ているからだという問題認識です。著者は介護者として、介護の社会的評価を上げる努力をしなければならないという反省を書きつつ、「介護予防」という厚生行政の考え方を批判します。著者は「介護予防」ではなく、介護は必ず必要になるものだとして「介護準備」という考え方を示し、金銭面の準備もしていくべきだとします。この点は、財政面も含めて考えなければならないところだと思います。
「聞き書き」して纏められる「思い出の記」は、民俗学的見地からも、話をしてくれた要介護者の方の思い出としても、非常に意義深いものだと思う。個人的には、発話されたものが書き言葉になることで再び生まれる「気配」というものの他に、やはり、発話そのものの「気配」も記録し再現できることにも意義が感じられるように思いました。
「聞き書き」のモチベーションは「驚き」であり、常に「驚く」ためには好奇心と矜持が必要だという下りは、少し前なら、そんな精神論的なものでは維持できない、と考えたような気がする。しかし、この無形のモチベーションというのは、実は大事にしなければいけないという思いが強くなっている。
そして、「回想法は誰でもそれを活用できるように方法論化が進んでしまった」というのは、誰でもできるようにマニュアル化することによって魂が抜け落ちるという悲劇を改めて認識するとともに、IT化というのは基本的にモデル化でありマニュアル化であり、誰もができるようにする手伝いであるということにこれもまた再び思いを馳せてしまう。
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不可思議な日常 池上 哲司 真宗大谷派宗務所出版部 2005-05 by G-Tools |
「娘の作文」
作文と言えば、「こういう趣旨で書きなさいよ」というのを如何に汲み取るか、というものだと思い込んでいる。例に挙げられていた「税について」だと、子供でさえ、「税金は納めないといけないものです」という趣旨をくみ取って、それにそったストーリーを書こうとする。自分の考えを書く、という訓練になっていない。作文という体を使って、洗脳しているのと同じ。自分の思ったことを思ったように話せない呪縛は、こんなところから始まっている。なぜ、作文をそんなふうに扱うのか?大人側が、子供が思っても見ないことを言ったときの対処能力を身に付けないまま大人になってしまうからだ。
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不可思議な日常 池上 哲司 真宗大谷派宗務所出版部 2005-05 by G-Tools |
「知識よりも思考を」
学びの楽しさを知らないから学生が学問する気を持たないというのはその通りと思う。僕も学びの楽しさを知らないのでとても同感できる。でも、就職面接で「クラブ活動に打ち込んできました」とか、学問以外のことをアピールするのは、企業側が大学での学問活動など取るに足らないと重視していなかったからのように思う。それともそれは僕がレベルの低いところで活動していたということなのか。それと、知識よりも思考を、というのはよくわかるし、思考こそが学問の楽しみの核だということもわかるけれど、それよりも問題は、思考のためには知識が必要なのだという、その必要性を理解させられていないことだと思う。
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自由と規律―イギリスの学校生活 (岩波新書) 池田 潔 岩波書店 1963-06 by G-Tools |
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不可思議な日常 池上 哲司 真宗大谷派宗務所出版部 2005-05 by G-Tools |
「本は楽しく」
緊張と緩和。入ることと出ること。本を楽しむ読むための心得として語られた内容は、いささか堅苦しくはあるけれど、ただ「おもしろく」読むという次元ではなく、「楽しく」読む域に達するために、常に心掛けないといけないポイントと素直に想います。
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自由と規律―イギリスの学校生活 (岩波新書) 池田 潔 岩波書店 1963-06 by G-Tools |
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不可思議な日常 池上 哲司 真宗大谷派宗務所出版部 2005-05 by G-Tools |
「顔を持つために」
小学生が「ルール」であることを振りかざして、「ルール」をはみ出した者を徹底攻撃する。そういう心性が、閉じた社会をつくる。盲目的に「ルール」に従う社会をつくる。だから、「ルール」であっても、「ルール」だからと「正義」として振りかざすのではなく、それは本当に「正義」と言える「ルール」なのかを考える姿勢を身に付ける必要がある。
と、このロジックは「日本に」いると、非常に当たり前のように聞こえるのだけど、先日、某所で立ち読みした『自由と規律』で、イギリスでは学生時代に、徹底的に規律を守ることを叩きこまれる、という章を読んで、深く悩みに落ちた。
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自由と規律―イギリスの学校生活 (岩波新書) 池田 潔 岩波書店 1963-06 by G-Tools |
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不可思議な日常 池上 哲司 真宗大谷派宗務所出版部 2005-05 by G-Tools |
「話すということ」
電話をかけたときの緊張感や苦手意識のところは共感したけれど、電話は会話ではないというのは若干違和感が残った。話し言葉が「話す」なのか、書き言葉が「話す」なのか、伝達なのかコミュニケーションなのか、手話は「話す」ではないのか、よくあるテーマと切り口がずらずらと頭に並ぶところだけど、ツールを間に挟むコミュニケーションということに話を限定すれば、電話やメール、さらに言えば「手紙」などを使ったコミュニケーションを「話すではない」と断定してしまうのは行き過ぎだと思う。確かにface to faceよりも情報量は落ちるかもしれないが、それを指摘する人には見えていないメリットというのもあり、一概に劣っているとは言えないはずだ。
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「花を見る」
毎年、毎日、見ていたものに今日初めて心を動かされたといって、それまでの自分の眼を怠惰だと責める必要はない、なぜなら毎年毎日同じように見えているものであっても、その時々の自分の状況によってまったく違うものであるからだ。この考え方は「常に新鮮な目で世の中を見る」という一種の美徳的な価値観と相容れないので躊躇うけれど、自分の置かれている状況はすべて自分で切り開けると考えるほうが傲慢であり、与えられたその状況を受け止めることが肝要という意味で、この考え方を厳然たる現実として受け止めるほうが人間的成長に繋がると思える。
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「私のもの」
いわゆる疎外論だと理解した上で、自分の「行動の結果」についても同じことが言えるかどうか、ということを考えてみる。マイケル・サンデルの『これからの正義の話をしよう』でも、大学入試の公平性についての追求で同じテーマが出てきたが、どんな綺麗事を並べても、生まれた環境や育った環境で、有利不利は存在するのだ。今、自分が持っている「有利」は、自分の力だけで成せたものだと言えるのか?これは絶対にそうは言えないのだ。だから、自分の「行動の結果」も、自分のものだとは言えない。そこから、私は私のものでもない、という結論も引ける。このことが理解できない人は、自分と相手の立場をひっくり返すことが出来ず、自分側の立場に知らず知らず固執し続けている。どれだけ、相手の立場を調査して考え抜き、それに対する内容を提示したとしても、結局、それは「自分側」から発したもので、けして「相手側」から発したものではない。
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「ゴキブリ捕獲の作法」
戦争が直接的な戦いから、湾岸戦争のようなスクリーン上での戦いになり、戦っている実感を伴わないようになったことを「進歩」とは決して言わない、というところから想起したのは、企業に勤めることの不条理だった。巨大企業であればあるほど、自分達がやっていることと自分達の成果報酬とに直接的な実感を持てない。それに、厚生年金基金問題のように、自分のやっていることに問題がなくても、基金破綻で割りを食ってしまうこともあれば、自分の会社には何の問題もないのに、厚生年金で補填すると言いだされ、割りを食ってしまうこともある。もはや、自分の手の届かない範囲で割りを食うことが多過ぎる世の中になり国になっているけれど、それが社会だと言われると何も言い返せないような気がする。
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「パンダの自己意識」
自己意識、自己嫌悪、自己反省。動物は、鏡を見てそれが自分であるという「自己意識」まではあるとしても、過去の自分を振り返ってそれを反省する力はないだろうとは言える。しかし、その自己反省の能力を持ったが故に、罠を仕掛けることを覚え、ひいては戦争を起こし、そしてその戦争について自己反省できないのが人類ということになる。それならいっそ、自己反省などできず、その場その場で起きたことにだけ対応して生きているほうが、平和な世の中なのではないか?この問いに対して、自己反省のメリットとデメリットを並べて、これだけのメリットも享受している、という形で対応するのは、経済優先主義に冒された愚の骨頂なのだろう。
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「不思議な経験」
僕は、説明のつかないことは極力排除することで、自分がそう言っているだけではなく、他人から見てもそう言えることである、という考えをとるように心掛けてきたけれど、不思議なことを不思議なこと受け止めることについては普通の人よりも自然にできると思っている。自然にできるから、安易にそちらに走らないよう、説明のつかないことを極力排除するよう努めてきたけれど、もう十分、そうしなくても自然なバランスで振る舞えるよう訓練できたと感じた。それよりも何もよりもこの章を読めたことは自分にとって大きな意味を持つ点がひとつあり、そこはこれまで以上に、この本を紹介してくださった乾さんに感謝したい。
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「進歩のない」
ここで例に挙げられている免疫学同様、僕が働いているIT業界も進歩の速い業界ではあるが、進歩の速い業界というのはそれだけまだ未熟な思考レベルということなのかなと思った。伸びしろが少なくなってからが勝負。そういう考え方と、伸びないものを伸ばしてもしょうがない、という考え方。ある意味、前者はただの意固地だとも言える。ただそれでも、本章のラスト、「文部省のように、急におもいつきだけでこころの教育を言ったところで、何の役にも立ちはしない」のところは胸を刺される。こころの教育だけでなく、急におもいつきでやることは、やらないよりはましとよく言われるけれども実は意外とそうではないことも多い。
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「息子の朝帰り」
ウチは著者の家庭のような、「電話ぐらいしろよ」と一言諭すというような家庭ではなかったものの、非常な愛情を持って躾けてくれたということは身に染みて感じている。それも、べたべたとしたものではなく、両親が合わさると適度なドライさを伴っていて自分のバランス感覚の礎になっていると感謝している。それにしても、ここに書かれている「子離れ」の話、「子離れできてこそ親の完成」であり、感謝の要求に繋がるようなことは望ましくないというスタンス、大学生の就職活動にまで親がしゃしゃりでる世の中になってしまったことを激しく憂うものである。本当に、一億総子どもになってしまう。
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「中年になって」
こころとの不一致を感じたとき、我々が成すべき努力は、その劣化を遅らせることだという結論は、なんか消極的努力のように聞こえて(せめて「維持」と言ってほしい)少しさびしい気もしたのだけれど、考えてみれば維持することは、老いは一秒ごとに進んでいる以上土台無理な話で、少しでも劣化を遅らせるというスタンスこそが最も望ましく美しいものだろうなと納得した。そこを理解できず、抗うように維持に、ややもすると若返りに邁進するようなスタンスが、現に若い人々の領域を押しつぶすような軋轢を生んでいて見苦しいのかも知れない。
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不可思議な日常 池上 哲司 真宗大谷派宗務所出版部 2005-05 by G-Tools |
「中庸ということ」
長い間、次の一章を読めずにいた理由が、読んで立ちどころに分かった気がする。この一章は正に今の僕に必要な一章だった。「中庸」という言葉を誤解していた。そして自分が大切にしていることが「中庸」であることもわかった。「中庸」を重んじることを、誰にも共感してもらえなくとも、それが皆から見て面白くないヤツと見える原因になったとしても、僕は自分の極端に振れることのできる能力を十二分に活かして、「中庸」をこれからも目指していこうと思う。
・自明でないことを自明であるかのように語る、ここから数多くの欺瞞が生じる。
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ステラMOOK ラジオ深夜便 隠居大学 第一集 NHKサービスセンター NHKサービスセンター 2012-07-18 by G-Tools |
こういう、年配の方の発言集とかインタビュー集、おもしろくて好きで結構読むんだけど、毎回、「自分が年をとってもこうなれてないよなあ、きっと」と思うのはなんでだろう?とそれこそ毎回思う。自分があまりにも若い頃から成長がなく、歳相応の分別というものを身につけてないままだからだろうか?と思ったりしたけど、やっぱりいちばんは経済的なところだと思う。本著でも出てくるように、「お金のあるなしなんて関係ない」と、ご老人は言うし、実際、ほんとに蓄財のなくても隠居を楽しんでいる人もたくさんいるんだろうけど、それは、人脈とか、知識とか、社会資本とかインフラとか、ぜんぶひっくるめて、日本国にある高度成長時代の「貯金」がまだ効いているからできることなんじゃないかと思う。その点をクリアに意識したご老人の発言というのは、亡くなった吉本隆明氏以外に見たことがない。
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不可思議な日常 池上 哲司 真宗大谷派宗務所出版部 2005-05 by G-Tools |
「人を好きになるということ」
この「人」という言葉は難しい。カッコで括った「人」は、人間を指す「人」と区別するために用いられていると思うけど、「人が悪い」というときの「人」は、いっそ「人間」と同じ「人」だとしてしまったほうが僕にとっては通りが良い。なぜなら書かれている通り、「人が悪い」というときの「人」は、性質という一面的なものではなく、言動なんかも含めたその人「全体」で成り立っているからだ。でも確かに言葉としては「人間」だと書き換えただけということになる。「人間」にも二つ(以上)の意味が包含されていることになって、書き表しにくいので始末に悪い。
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「待つ」
これは結構長い間悩んでるテーマ。現代は基本的には説明責任の時代だと思う。その根本的かつ最大の理由は、グローバル・ボーダレスだと思う。人間、根本的なところは世界中どこでも変わらないとは言え、やっぱり基本的には言わなければわからない。その上、都市部では急速な産業の高次化と情報技術の進展で、もはや肉親間でさえ、言葉不要の信頼関係というのがなくなってしまった。こんな状況で、考えが出てくるまで「待つ」ことの重要さを語るのは、ある種のノスタルジーであり、ほんとは変わらなければいけないことではないのか?これには直感的に反発したくなるものの、実はきちんとした反論を組み立てられていない。
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「見えない境界線」
トランシーバーと携帯電話の話は、ちょっと頷けないところがあって、それはトランシーバーの登場がそう言った時代だったからであって、「トランシーバー」と「携帯電話」の形態には依ってないから、もしトランシーバーが今、こなれた価格で登場したら、同じことは起きると思う。これは手紙のフォーマットをメールに強要したり、移動手段が徒歩しかなく、そうそう対面できない時代の挨拶儀礼のやり方を現代に強要するのと同じようなことだと思う。
境界線を「官」に求める、という指摘は、少なくとも日本ではその通りだと思う。境界線を、誰かに決めてほしい、誰かが決めて当たり前、という思考回路が、日本人の思考能力を弱めているような気がしているが、境界線を自分で考える際のポイントが「はた迷惑」というのは、いかにも日本的だけど、僕はこれもあまり頷けない。なぜなら自分の境界線の主語はやはり自分であるべきだと思うからだ。
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「今とここ」
目が覚めたとき「今」がいつかわからない、という所在の無さとはちょっと違うけど、僕は眠りに落ちそうなときと、眠りから覚めそうなときに、急に自分が死を間近に控えた年齢になった実感を得ることがある。もちろん、普通に目を覚ましているときでも、70歳になった自分、80歳になった自分を想像するとそれはそれで怖いんだけど、寝入りばな・寝起き中のときに思い浮かべたときの恐怖感は比べ物にならない。あれは、眠りと覚醒が入り混じっている状態で、「今」とうまく切り離されていく状況だから、感じられる恐怖なのかなと思った。
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不可思議な日常 池上 哲司 真宗大谷派宗務所出版部 2005-05 by G-Tools |
「書かれた名前」
ちょうど今日の日中、「長嶋終身名誉監督」のことを思い出していた。社内にいかにも肩書で仕事をしているような、肩書が人間の値打ちと思っているような人がいて、その人の話題になったからだけど、もっと若い頃のほうが、「肩書がどうした」と言う勢いが強かった気がする。「長嶋終身名誉監督」というのを聞いたときも、「なんだその”終身”って!」とせせら笑った気がするんだけど、今は若干ながら”終身”を付ける気持ちというか、無暗に長い肩書にしようという感じとか、「退かなくてもいいようなことが判る名前にしないと」という理屈っぽいところとか、そういうのに理解を示せてしまう自分がいる。これは、自分が何者かを証明することに楽をしよう楽をしようと慣れていってしまっている現れに違いない。自分で自分が何者かを証明することはできない。だからといって、客観性を突き詰め続けていく果ては「肩書」になる。
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不可思議な日常 池上 哲司 真宗大谷派宗務所出版部 2005-05 by G-Tools |
図書情報館の乾さんに、40歳の記念にお勧め頂いた『不可思議な日常』。「ゆっくり読むのがお勧めですよ」と仰られていたので、読んでいた本と慌ただしく落ち着かなかった日々がある程度落ち着いた今、一日一章ずつ読んでいこうと思います。
「鈴の音」
鈴をつけていない僕自身も、鈴同様に自分自身でコントロールすることはできない。自分が何者かは、相対する者にも依存している。相対する者がいない世界では、僕自身は何者でもないということになるのだろうか?鈴の音をどんなに鳴り響かせても、何者にも成れないだろうか?仮にそうだとしても、僕自身がいなければ相対する者もおれないから、僕自身を僕自身はどう受け止めているかを平生よく考えておくことは無駄ではない。
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極北 マーセル・セロー 村上 春樹 中央公論新社 2012-04-07 by G-Tools |
「なにか」が起きて、ほとんど破滅したような地球の極北に住む生き残り、メイクピースが主人公。メイクピースの一家はアメリカから極北への入植者。メイクピースの父親は、豊かになり過ぎた社会に疑問を抱き、それを「極北への入植」という形で行動に移した。厳しい自然、何もない環境を「理想郷」とする、現代の矛盾。そこで試される「理想」の形。
温暖化や原子力発電、更に地球規模の格差問題を絡ませ、それらが地球を破滅させたイメージを思い起こさせる。その文脈も、特に3・11があった以降の僕達には考えることがたくさんあるけれど、僕は「正義」を巡る考察にとても興味を引かれた。メイクピースが暮らす世界では、理念優先の正義は役に立たない、とメイクピースは言い切る。確かに、生きることさえ困難な、荒廃した地球で、理念優先の正義は何の役にも立たないことは想像に難くない。
けれど、正義が一面的でないことは、なにも、荒廃した地球だけで成立しうることではなく、まだ「破滅」していない現代に暮らす僕達の地球でも同じことが言えると思う。『極北』の世界が示す正義の多様性は、極限で起きることを言ってるのではなくて、どこにでも起こり得ることなのだと語っていると思いたい。「我こそは正義」と声高に叫ぶ意志こそが、最も正義から遠いことが多いのだ。なぜなら正義はある一面で絶対的な否定を孕んでいることに気づいていないからだ。
だから、メイクピースが後半、「怖いのは絶滅だ」と語るところで肝が冷える。環境によって、時代によって、正義がいかようにも姿を変えるのだとしたら、正義とは単なる「価値観」の一形態であって不変で普遍なものではないとしたら、それは絶滅を避けるための多様性の確保なのではないか、とまで思えるからだ。物事がうまく行ってない例えである「ゴー・サウス」を、メイクピースの父親は自分独特の言い回しとして「ゴー・ウエスト」と言い、正義を北になぞらえ、北の極限まで進んでしまうと正しさを示すコンパスは役に立たなくなるという。ここで唯一出てきていない「東」には何があるのか?その極東の地で3・11に遭遇した僕達が考えるべきことはあまりに多い。
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絵で見てわかるOS/ストレージ/ネットワーク データベースはこう使っている (DB Magazine SELECTION) 小田 圭二 翔泳社 2008-04-22 by G-Tools |
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偶然とは何か―北欧神話で読む現代数学理論全6章 イーヴァル エクランド Ivar Ekeland 創元社 2006-02 by G-Tools |
「圧縮不可能でなければならない」と、原子力発電所の炉心融解のリスクと、ビッグ・データ。IT業界の今と密接に関連する事柄を知れる好著だった。もちろん、タイトル通り、「偶然とは何か」という問いを、数学的な切り口と、哲学的な切り口で迫ってくれるおもしろさにも満ちている。
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日本は悪くない―悪いのはアメリカだ (文春文庫) 下村 治 文藝春秋 2009-01-09 by G-Tools |
未だにレーガンを信奉する日本人がいるのにちょっと驚いて、どこかのサテンで手に取った新聞の経済記事に偶然下村治氏と本著が紹介されていたのがあって、丁寧に読んだ。本著は1987年の著作だが、未来予測が含まれる経済書は、後から振り返ってみるとなんともバカバカしい気分になることが多いが、本著はわずかに「1ドルが百円にでもなったときであろう」という部分が外しているくらいで、驚くほど現在でも通用する内容だった。
「借金帳消し」というやり方が出てきた「日本がアメリカに貸したカネは取り戻せない」という章が特に面白かった。ユーロ危機は負債の始末のつけ方だけど、日本人としての僕は、「ゼロ・サム理論」というか、「借りた金は返さなければ規律が保たれない」とか、そういう倫理的な価値観だけでこの問題を考えすぎているのではないかと思った。経済がなぜ行き詰るのか、その理由のひとつに、消費の膨張を止められないということがある。経済は常に成長を続けなければ必ず衰退してしまうものなのか、これがいちばん難しい命題なのだけど、行き詰った経済を立て直すのに、どういう方法があるのかという考え方の幅を広げてくれた。
石油ショック後の経済成長の記述は、言わずもがなだけどどうしても東日本大震災を重ねてしまう。東日本大震災後、僕の目には、より自然災害に強い国になるための技術開発と、原子力発電の問題に端を発するより少ないリソースでの生き方の模索と、経済論理ではない人生の価値観の探求という、3つの新しい、身の入った動きがあるように映ってる。これらはいずれも、経済成長を最重要項目に置いた社会では取り上げようのなかった動きだと思う。自然というものは、人間にとって思い通りにならないものであるが故に思ってもみない災害を招くという事実に少しでも意義づけができるとしたら、こういうことなのかなと思った。
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バートルビー/ベニト・セレノ ハーマン・メルヴィル 留守晴夫 圭書房 2011-01-10 by G-Tools |
「その気になる」「ならない」ということと、「そうしない気になる」というのは全く異なること。「その気にならない」というのはただの否定だけど、「そうしない気になる」というのは否定の肯定だ。この「そうしない気になる」ということに、いろんな哲学者が可能性を見出したらしい。それを眺めているだけで興味津々。
「代書人」という職業も気になる。郵便配達人にしても、代書人にしても、ある意味、国家から仕事を貰う立場のように思う(今の日本は郵政は民営化されているけど)。そういう、国家から与えられる仕事には、嫌気が指すということなんだろうか?それはともかく、どちらも言葉を扱う仕事であるところが奥深い。
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春を恨んだりはしない - 震災をめぐって考えたこと 池澤 夏樹 鷲尾 和彦 中央公論新社 2011-09-08 by G-Tools |
池澤夏樹氏も理系の学問(物理学)を修めていたということを初めて知った。優れた文学者の多くが理系にも関わっている気がする。「移ろうものを扱うのなら文学」と本著にあるけれど、移ろうものを文学で扱うために、前提として静的な分析をするための姿勢・方法論として、理系の思考回路が必要ということのような気がする。
組織機能について記載されているところがむず痒かった。確かにゆるい結びつきのネットワーク型組織が、非常事態で有効に機能することはわかる。けれど、これにもデメリットがあるからピラミッド型を志向する訳で、それがなんなのかは明確に言葉にしないといけないなと思った。
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乳と卵 川上 未映子 文藝春秋 2008-02-22 by G-Tools |
豊胸手術をもくろむ母・緑子と、自分の性を受け入れられない娘・緑子。緑子は言葉を話さず、日記には精子と卵子と乳。世の中の辛いこと悲しいことは生まれてくるからだから、自分は子どもは絶対産まない。お母さんは私を産んだから大変でも当然だと思ったけれどそんなお母さんも自分で生まれた訳じゃないんだからそれもお母さんのせいではないというところまで突き詰める緑子。そんな緑子は声を発さず筆談し、言葉で表せない言葉はないのか、言葉を言葉で表すと一周するんじゃないのかと電子辞書を繰る…。
生命の輪廻と言葉の輪廻。ほんとのことはどこかにあるのかないのか。そんな根源的な話題をぎっしり詰め込みながら、母と娘が遂にぶつかり合うクライマックスでお互いではなく自分にぶつけあうのは生卵。もう徹底していて清々しい!
この事の重大さは、「ほんとのとこ」は女性でないとわからないのだろうなと思ってはいますが、それを見透かしてか「言葉」という要素を哲学的に入れ込んでいるあたりがあざといくらい見事で、最後まで面白かったです。
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これ、いなかからのお裾分けです。 福田安武 南の風社 2010-07-07 by G-Tools |
僕は生粋のど田舎育ちなので、「いなか」を持ち上げる言葉とか話とかがどうも好きになれません。「田舎暮らし」とか、一生田舎で暮らすなんて子どもは絶対嫌がるよ。せめてときどき都会に出れる環境だから、田舎暮らしもいいかな、なんて言えるんだよ。自分の子どもの頃の感覚からそう思ってるんだけど、日本には僕が住んでたような、電車で1時間半で都会に出ようと思えば出れるような環境じゃない田舎もたくさんあって、そういう地域の子ども達は、都会に出たいとより強く思うのかそうじゃないのか、もちろん個人によりけりだろうけど、そういうことを思う。
この『これ、いなかからのお裾分けです。』の著者は、生半可な田舎ファンじゃなくて、田舎に生まれ育ち田舎を心から愛している「田舎人」なので、その生き方にただただ感服してしまう。僕は田舎で育ったとは言え、引っ越してきたサラリーマン家庭なので、農業を体験する訳でもなく、著者のようなディープな田舎知識は身についてなくて、同じ田舎で生きてもこうも差のつくものなのかと、引いては日々の過ごし方が大きな差になるんだよなと、当たり前のことを改めて反省したり。そして著者が、漁師に憧れたり、漁師になるために大学を選んだり、そこで漁業の現実を知り将来に迷ったりする姿は、真摯過ぎて圧倒。ここまで筋を通して生きていくことはなかなかできない。田舎暮らしのディティールよりも、その筋の通し方に、誰しも感じるところの多い本だと思います。
田舎で暮らしていくことは、都会で暮らしていくことに較べて、金銭的な豊かさはたいてい劣ることを覚悟しないといけない。「心から喜んでくれる人がいるから、お金儲けにならなくてもいいんだと言うおじいさん」の話が登場するが、これはとても象徴的だと思う、というのは、お金儲けにならなくても暮らしていける要求水準の「おじいさん」ならそういうスタンスで(理想の)生活をやっていけるかも知れないけど、これからいろいろな人生のイベントのある著者が、そういうスタンスで続けていけるのかどうか、そこを指し示すことこそが、現在ではこういう本には必要なことかな、と思う。「はじめてみよう」と誘い出す本はあまた溢れていて、そういうことを言う役割は、もう本では終わったのかな、と。
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災害がほんとうに襲った時――阪神淡路大震災50日間の記録 | |
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中井 久夫 みすず書房 2011-04-21 売り上げランキング : 53644 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
『歴史の中に見る親鸞』同様、これまた奈良県立図書情報館の乾さんのオススメで読みました。オススメというか、某日、乾さんとサシでお話させて頂く機会を得た際に、話題に挙がった一冊。乾さんがこの一冊を僕に教えてくれた理由のその一節は、
ほんとうに信頼できる人間には会う必要がない
ここだと思うのだけど、どうでしょう?
「ほんとうに信頼できる人間には会う必要がない」、これはいろんな状況で、いろんな意味で当てはまる言葉だと思う。例えば通常の仕事の場面で。この言葉が引用された、阪神淡路大震災発生直後のような、大緊急事態の際、何事かを決定して次々実行に移さなければいけない場面、そういう場面では、通常は少しでも相手方とのコミュニケーションが、できればフェイスツーフェイスのコミュニケーションが望ましいけれど、「ほんとうに信頼できる人間には会う必要がない」。これを演繹していって、例えば、一般の会社でいちいちいちいち会議を開かなければならないのは、間違いのない意思疎通確認を重要視しているともいえるし、お互いが信用ならないからということもできる。もちろん、お互いは黙っていては信用ならないという真摯な態度で意思疎通確認を重要視しているとも言えるけど。
更にこの言葉をもっと広く取って、旧知の仲なんかに当てはめることもできる。いちいち、同窓会とかなんとか会とかを持って維持しなければいけないのは、それだけ信頼できてないからで、ほんとうに信頼できる人間は「会う必要がない」。もう相当なピンチのときにだけ、声をかけるか、思い出すかくらいでいい。そんな関係は、確かにある。
p22の「デブリーフィング」。ブリーフィングの反対なのだけど、日本でももちろん「反省会」というような形式で存在する。設定するスパンの問題でもあるが、「回復」をプロセスの中に組み込む思想があるかないかが大きい違いだと思う。
p92「なかったことは事実である。そのことをわざわざ記するのは、何年か後になって、今「ユダヤ人絶滅計画はなかった」「南京大虐殺はなかった」と言い出す者がいるように、「神戸の平静は神話だった-掠奪、放火、暴行、暴利があった」と書き出す者がいるかもしれないからである」
p94「ふだんの神戸人はどうであったか。」「あまりヤイヤイ言うな」というのが、基本的なモットー
p95「世界的に有名な暴力組織がまっさきに救援行動を起こしたということは、とくにイギリスのジャーナリズムを面白がらせたそうだが、神戸は彼らの居住地域であり、住人として子どもを学校に通わせ、ゴルフやテニスのクラブに加入しているからには、そういうことがあっても、まあ不思議ではない」
p97「共同体感情」
p128「ところが、以上の悪夢は二月十三日夜、セパゾン(クロキサゾラム)二ミリを使うことによって即日消滅した」
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ペルセポリスII マルジ、故郷に帰る | |
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マルジャン・サトラピ 園田 恵子 バジリコ 2005-06-13 売り上げランキング : 171787 Amazonで詳しく見る by G-Tools |
僕はたいていの自分の悩みというのはしょうもない、取るに足らないものだと考えていて、自分の悩みだけでなく、周りの人の悩みも、たいていは取るに足らないものだと考える。なぜ取るに足らないかというと更に他人との比較論で取るに足らないものと考える訳で、その比較対象というのはこの『ペルセポリス』のマルジ、のような存在だ。もちろん、「わたし」から「あなた」の悩みを見て上だの下だの言ってはいけないと肝に銘じているものの、ワールドワイドクラスで考えると、途端にその物差しの目盛が変わるのだ。
マルジはイランの少女で、両親の計らいでオーストリア・ウィーンに留学している。この『ペルセポリスⅡ』では、留学先ウィーンでの4年間の人生と、テヘランに戻り学生結婚し破局するまでの過程が描かれている。そこにはイラン・イラク戦争、イラクのクェート侵攻、イランの凋落と体制主義などが淡々と、しかしくっきりと描かれる。自由を求めてウィーンに渡ったのに、どうしようもない流れに飲み込まれてテヘランに戻りたいと切実に思うその経緯は、自分の悩みをしょうもないことだと言うに十分だと思う。
読書体験というのは、実体験では補いきれないものを補ってくれる。それは確かに実体験ではないし、テレビモニタで見るような実際の映像つきでも音声つきでもない。でも確かに文学は実体験を補ってくれることができる。それは映像や音楽とは根本的に質の違うもの。本著は、その根本理由を説明できなくても、そう信じさせてくれる良い「漫画」だと思う。
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君が降る日 島本 理生 幻冬舎 2009-03 by G-Tools |
暗示的。まったく相変わらず自分の「本を選び取る才能」に惚れ惚れしてしまう。
ここ最近読んだ本の「暗示」は、過去の出来事の意味や扱い方の暗示で、この『君が降る日』は今これからの暗示だった。明確な節目なんてある訳ではなく、今が節目付近という訳でもなくてとうに過ぎ去っているのだけど、この暗示を受け取るタイミングとしてはベストだったと思う。
僕が今まで「やってみるんだ」と決めたことは、何一つとしてやり遂げることができなかった。「やるべきことなんだ」と認識したことは、ちゃんと結果を出してきたと思うけど、「これは難しいこと。でもやってみるんだ」とチャレンジを決めたことは、やっぱり難しくて、やり遂げることができたことはない。そしてまた今、僕は「やってみるんだ」と思えたことが胸にある。今までやり遂げられなかった数々は、だからと言って無駄になんかなっていない。無口な情熱として僕の中に折り重なって宿り、それが今度の「やってみるんだ」を後押しする。大事にしたい分だけ、不安の種をいくつも見つけ出してしまえるけれど、それでも「やってみるんだ」と思っている。
表題の『君が降る日』は、恋人を亡くすというモチーフ。『もしもし下北沢』は父親を亡くすというモチーフだったけど、この二作はそこから回復するためには「道のり」が必要、と言ってる点で共通してる。言うまでもないことなんだけど、意外と忘れがちになる。特にせっかちな僕は。いつかは必ず回復することが分かっていても、回復してない間はそんなこと信じることができない。ただ、その間、自分がやりたいと思ったことや、流れが生み出してくれた行動が、いったいどういう意味なのか、本当のところはいつも後から判る。でもそれでよいのだと思う。
でも今回暗示的だったのは『君が降る日』ではなく、『野ばら』。表題作ではなくて、いちばん最後に収録されている作品に痺れてしまうこのパターン、『袋小路の男』と同じで奇妙でなんなんだろう?ほんと。暗示的というか、自分が挑もうとしている道の険しさを再認識させられるような。でも、こう書いちゃうとあまりにシリアスだけど、そんなにシリアスじゃないし、シリアスじゃ余計ダメだよね、というのもちゃんとわかっている。願わくば、そこに誤解が生まれないように、自分自身ではどうにも解決しようのない類の誤解が生まれないように。
もう一作、『冬の動物園』は、主人公の美穂のお母さんの最後の一言、母親らしさでもあると思うけど、本気でそう言ってるようでもあって、本気でそう言ってるようなところが、僕の母親にそっくりで思わず笑ってしまった。
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ヘヴン 川上 未映子 講談社 2009-09-02 by G-Tools |
初「川上未映子」。
どうして女性というのは、自分は忘れられたくないのだろう。自分のことを覚えていてほしいのだろう。一般的には男のほうが、いつまでも過去を覚えていると非難めいて言われるのに。でもその疑問の答えは常に出ている。女性は、自分以外はすべて他人なのだ。
読み終えて思ったのは、主人公の「僕」と、コジマを入れ替えて書いてほしかったなということ。入れ替えるってのは、主人公を女の子で、コジマを男の子で書いてほしかった。コジマを主人公にするって意味じゃなくて。川上未映子が女性であるだけに、主人公を男性ではなく女性にしてほしかった。
読み終えてなんでそんなことを思ったかというと、途中でひとつだけ違和感を覚えたところがあったから。それは、「僕」が斜視は手術で簡単に治るんだということを話した際のコジマの振る舞いに始まる。男性はどうだとか女性はどうだとかの決めつけはあんまり褒められたものではないけれど、「しるし」を大事にするコジマの気持ちというのは僕にはとても分かりやすく「女性」だった。シンボルに拘る、シンボルを大事にする女性。それに対して「僕」はそこには本質はないと感じていて、だからラストで、「誰に伝えることも、誰に知ってもらうこともできない、それはただの美しさだった」と嘆息する。でも「僕」のその本質感を、彼を苛めていた百瀬の「斜視が理由なんかじゃないんだよ」という嘯きが補強している面もあり、それがコジマに微かに伝わってしまっている感もある。
だから、主人公を「私」で書いてほしかった。主人公が「私」だったとき、こういう普遍的なラストを作り上げることができただろうか?コジマはくっきりと強く、自分自身の理論を持って、そして「しるし」に縋りながら、強烈な力を発揮する。それが、男の子に出来ただろうか?自分以外はすべて他人、お互いの立場を入れ替えることなど露程も頭になく、あなたはあなたわたしはわたしを貫き通す女の子と、より一般化しようとする男の子。このループを揺り動かすような構造を見てみたかった気がする。
コジマは言う。「わたしが、お母さんをぜったいに許せないのは」「お父さんを」「最後まで、可哀想だって思い続けなかったことよ」。女性は、続かないことを許さない。男性は、そこに孤独が横たわるとしても前に進もうとする。誰とも分かり合えない悲しみを、あらかじめ胸に抱いている。
p87「太陽のおまじない」
p115「僕はそのふちに立たされてしまうといつも絶望的な気持ちになった」
p136「自分の手だけは汚れていないって思い込んでるかもしれないけど、」
p151「自殺という言葉が連れてくるのは「どこかの、知らない誰かの死にかた」以上のものではなかった。けれど」
p170「意味なんてなにもないよ。みんなただ、したいことをやってるだけなんじゃないの」
p175「『自分がされたらいやなことは、他人にしてはいけません』っていうのはあれ、インチキだよ」
p193「自分がなにについてどう考えてゆくのが正しい筋なのかがわからなくなっていった。」
p203「最後まで、可哀想だって思いつづけなかったことよ」
p210「返事がないのに手紙をつづけて書いてそれをだすのはこわいことだった」
p224「僕がしつこく手紙を書いたりしたから、こんなことが起きてしまったのだ」
p234「わたしたちは従ってるんじゃないの。受け入れてるんだよ」
p235「想像力もなにも必要じゃない、ただここにある事実なのよ」
p241「僕は自分の本当の母親のことも話した」
p248「そしてどこにも立っていなかった。音をたてて涙はこぼれつづけていた」
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妻の超然 絲山 秋子 新潮社 2010-09 by G-Tools |
文麿は他の女のところに出かけていっているようである。理津子は確認はしていないがそれを事実としていて、だからと言って事を動かそうとは思わない。曰く、「超然としている」。
理津子は文麿の行動そのものに対して直接的に文麿に何かを言ったりはしない。それを以て理津子は自分を「超然」だとしていた訳だけど、それは「見て見ぬ振り」とそう変わらないものだった。それに、理津子は文麿の「行動」に対しては目を向けていたけれど、文麿の「考え」には全然目を向けていなかった。彼が何を考えているのか、考えたことがあるのか。あるとき理津子はそう自問する。そして、自分がやっていたことは「超然」ではなく「怠慢」だと気づくのだ。
その過程には、「よその女の家に行ってしまうのは、そっちの方が楽だからではないだろうか。」という一節がある。そして理津子は、「そんなこと、断じて認めるわけにはいかないが。」とここだけは「超然」としていない。やっぱり理津子は、文麿にはまず理津子という図式が必要なのだ。だから「私はまだ一度も文麿を捨てたことがない」のだ。
だから、捨ててしまえる人は偉いと思う。それは自分の変化を受けいれていることだと思うから。でも偉さはそこまでなら半分で、相手の変化にもちゃんと目をこらしていたのだろうか?それを受け入れているのだろうか?そこから逃げるように、自分も変化しただけではないのだろうか?それでは結局、「見て見ぬ振り」と同じなのではないか?自分が「超然」のようが「怠惰」に陥ってしまった理由は、実は自分が作り出していたものではないのか?
僕はこの話を、二つの読み方をほとんどオートマチックにしてしまっていて、ひとつは文麿の立場、ひとつは理津子の立場。文麿の立場というのは、「誰かの許しに甘えて生きている自分」、理津子の立場というのは、「怠慢な自分」だ。どちらの自分もいることは認めざるを得ないと思う。もちろん、そういう自分を出さないように日々努力はしているつもりだけど、どうしても文麿だったり理津子だったりしてしまう、それもどうしようもなくてそうなってしまう毎日が続くときも、言い訳ではなくて実際にある。そんなとき、理津子が忘年会から酔っぱらって帰ってきて、眠れているのに眠れないといって傍で寝れば眠れるということを知ってて寝かせてあげて「文麿がしあわせで嬉しかった」と感じる、その心ひとつに救われるし救えるのだ。それこそが「超然」なんじゃないだろうか。そういう「超然」を身につけることができたり、救われたりすることが、僕にもあるだろうか?
途中、理津子のストーカーの話が出てくる。親友ののーちゃんに相談すると、「この手紙をそのストーカーに渡せ」と封された封筒を渡される。理津子は言われる通り、ストーカーにその手紙を手渡すと、それきりストーカーは現れなくなる。中身がどんなものだったのかは最後まで明かされなくて、僕はその内容をうまく想像することができない。のーちゃんは「人間扱いしてやっただけ」と言っていて、これはたぶん、「見て見ぬ振り」をしていた理津子の文麿に対する態度と遂になっているのだとは思う。
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クーデタ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-5) ジョン・アップダイク 池澤 夏樹 河出書房新社 2009-07-11 by G-Tools |
アップダイクは初めて。村上春樹関連で名前が出てきたので読んでみようと。その名前が出てきた記事では、あんまり評価されてなかったんだけど。
まず読んでいてずっと思ったのは、エルレー大統領の親ソ加減。著されたのは1978年。その当時は、アメリカにも親ソの空気があったってことなんだろうか?日本の北朝鮮への集団移住は1959年。ヒッピーブームは1960年代~1970年代。ヒッピーと共産圏は関係ないようだけど、1972年生まれの僕にはイメージとしてどうしてもつながってしまう。「みんないっしょにしあわせに」という物事の考え方が根底にあるものは、形はなんであれ似通ってしまうんじゃないかと思うのだ。
文体がかなり慣れなかった。超絶技巧な文体で、説明は多く、ディティールも細やかで読んでて面白いのは間違いなんだけど、読み進めている途中で事態がぽつんと語られることが多くて、「え?いつのまにそうなってたの?」と巻戻って読むことが何度か。かなり集中力要します、僕のような頭の悪い人間には。
それと、解説を読んで、この『クーデター』はアップダイクの作品の中ではレアなケースというのを知ってまたびっくり。アップダイクの得意な分野は、エルレーが妻四人愛人一人との間で落ちぶれていく、ああいう様をメインに持ってきた小説らしく、もっと読んでみようと思った。
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チェンジメーカー~社会起業家が世の中を変える 渡邊 奈々 日経BP社 2005-08-04 by G-Tools |
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日本のNPOはなぜ不幸なのか?―「社会をよくする」が報われない構造を解く 市村 浩一郎 赤城 稔 ダイヤモンド社 2008-09-20 by G-Tools |
借りたけど読めなかった2冊。
NPOについて情報収集しようと思ってるので、時期を見て改めて借りよう。
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ドーン (100周年書き下ろし) 平野 啓一郎 講談社 2009-07-10 by G-Tools |
人類初の有人火星探査のクルーの一員となった佐野明日人とその妻・今日子、東京大震災で亡くなった二人の子供である太陽を取り巻く物語と、有人火星探査で起きた事件とアメリカ大統領選での「テロ」に対する在り方を問う選挙戦の物語が絡み合いながら進行していく近未来小説。
民主党候補ネイラーと共和党候補キッチンズの選挙戦は、小説の後半に大きな盛り上がりを見せる。ここで戦わされる「対テロ」をメインにした議論を読む前に、マイケル・サンデルを読んでおいてよかったなと思う。キッチンズの議論の攻め方は、非常にキャッチーで触れているその部分には否定できるところがなく、ある種の強制力を持って聞き手に踏み込んでくる論法だけど、単にひとつひとつを詳細にして覆していく手法では、良くてイーブン、普通はあと一歩のところまでしか追い込めず、ひっくり返すには至らない。ひっくり返すには従来通りではない「正義」の骨格が必要で、マイケル・サンデルを読んでいたことでここの部分の理解を進めることができたと思う。うまく連鎖してくれた。
もうひとつ、物語を通して出てくるのが「ディビジュアル」という概念。これは、それぞれの個人(インデビジュアル)は、対面する相手によって人格的なものを使い分けている、そのそれぞれの場面での「自分」を指す言葉(ディビジュアル=分人)というような意味だと理解して読んだ。確かに、現代社会に暮らす人々は、それぞれの場面でそれぞれにふさわしい振る舞いを当然ながらに求められるし、必ずしもそれがどこでも首尾一貫してる必要もない。ちょっと窮屈だな、と感じる社会の根っこはディビジュアルを認めないような厳格さにあるような気もするし、逆にそれぞれの場面に求められる振る舞い-マナーとかもそうだろう-を身につけられない、身につけることを拒否するようなスタンス、そういうのが自分たちに結局跳ね返ってきて社会を窮屈にしてる気もする。
平野啓一郎は『決壊』に続いて読んだんだけど、細部まで神経が行き届いているしテーマの膨らみも読んでて面白いし何も文句はないんだけど、どうも登場人物がみな「頭が良すぎる」ところだけがちょっとなあと思う。なんか、物語自体が全体的に「浮世離れ」しちゃってるように感じる。せっかく誰にも考えてほしいテーマを書いてくれてるのに、なんか違う上流世界向けの小説というか、自分の頭の良さを感じさせないでは済ませられないかのようなところがあって、そこはちょっと損してると思う。
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ドリーマーズ 講談社 2009-08-21 by G-Tools |
まず本筋にあんまり関係のないところから感想を書くと、『ドリーマーズ』で、赤の他人がふとしたきっかけで電車の中で会話するのが東京っぽいなあ、いいなあ、と思った。大阪ではあんまりこういうのない気がする。じっと考えてみて、東京はやっぱり、終わってもまたすぐ次が回ってくる、そんな環境だからじゃないかなと漠然と思った。
柴崎友香は、おっとりのんびりした関西弁とちょっと胸を締め付けられるような筋書きが好みで、図書館の新着図書に本著があったので予約して借りてみたんだけど、ちょっと食い足りなかったかな。短編集なんだけど、一篇目の『ハイポジション』と最後の表題作『ドリーマーズ』が読んでて目が吸いつけられるし頭にぐいぐい入ってくるんだけど残りは若干印象が弱くて、「やっぱり年を取ると感性が弱まってくるというのもあるかも知れないけど、何より、自分が普段生活している世界と全然違う世界が描かれてると、ディティールにいちいち躓いてしまうしうまく頭の中で想像ができないので、感じ方が弱くなるのかな」と思いつつ読んでたけれど、読み終えて初出を見ると、『ハイポジション』と『ドリーマーズ』は「群像」で、それ以外は違ってて、やっぱり読者層というのを意識して書き分けてるってことかなあと凄く納得しました。
タイトルは『寝ても覚めても』があんまりない感じで、これが良かったんじゃないの?と読んでるときは思ったけど、全部読み終えたらやっぱり『ドリーマーズ』だな、とこれまた納得。夢というか予感というか、そういうのが織り込まれるのが多い。「あれってこれの予兆だったんだ」と思うような夢や出来事は、後からわかったとしても日々のアクセントとして心の中で大切にしてあげてる人々。そこにもってちょっとだけ、死のイメージが絡んでくる。「またここでも死についてか!」とちょっとびっくりしたけれど、「もしかしたら自分はもう死んでるかも」というイメージを持つのは、とても悲しいことだけとは言い切れないなというのがもっとも新鮮でした。
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CHICAライフ 島本 理生 講談社 2008-06-27 by G-Tools |
島本理生が2003-2006年の間、『ViVi』に連載したエッセイを集約し加筆・訂正されたもの。
この本については、失礼を承知で本音を書きたくてしょうがないので、書いてみる。島本理生は『ナラタージュ』でハマッて以来大好きな作家で、 結構読んでる。作家のエッセイにはあんまり興味のないほうというか、手を出さないようにしてたほうなんだけど、島本理生はエッセイも読んでみたいと思ったくらい、好きな作家なのです。それを前提で書くと、僕の中では島本理生って、若くして『ナラタージュ』のような、重層的な恋愛小説を書ける力量を持った凄い作家と認識してて、そういう作家というのは、天才というか、とんでもない文学的才能を持ち合わせて生まれてきて、とんでもなくアタマも良くて、高学歴で仕方がないんだろうなあというイメージがあった。僕は自分のことそんなにめちゃめちゃアタマが悪いとまでは思わないんだけど記憶力は悪いし論理的思考にも欠けるので(ってことはやっぱり悪いのか…)、なんだかんだ言ってやっぱりレベルの高い大学にいってる人の能力というのは高くて叶わないもんだ、と思ってる。そして、島本理生もそうだと信じて疑ってなかった。そんななかでも文学を志す人というのは、とても高尚に色気も纏まっていて早熟な恋愛に身を染めているか、文学オタクではないけれど、あんまり実恋愛と縁のない生活なのかどちらか、と思ってた。
ところが、だ。『CHICAライフ』を読んで、ひっくり返った。ムチャクチャなのだ。母親が名を成している舞踏家・鍼灸師ということで、一般庶民と違う親交や情報の入り方の素地というのが子ども時代からあったと思われるけれど、それでも僕の中の「文学を志す人」の特殊なイメージとはかけ離れた一般人加減。高校時代の思い出の記述は、30代後半の僕の目線で、自分の高校生時代のことを思い出しながら読めば、君はヤンキーか?と思わずにはおれないむちゃくちゃ加減だし、なんとすれば一体どれだけのサイクルでつきあってるんだ?と疑問に思うくらいつきあってるし、すぐ同棲してるし、もう少し遡って中学生の頃は活字耳年間だったなんていってるし、おまけに大学に関して言えば、もちろんレベルの高い大学ではあるけれどもどちらかというと一般的な範疇に入る大学で、その上中退してる!更に言うと、もう結婚もしてた!
とにかく、今まで、物事を決めつけで見てはいけない、と常々心がけながら生きてきたつもりだけど、こういう角度の「偏見」というのも存在するものなんだ、と気づかせてくれた一冊に違いない。島本理生は文学エリートではなくて、現代の無頼派だった。どんなやり方であれ、経験値はやっぱり多いに越したことはないのだ。その教訓を生かそうとしても、僕の年ではもう、あまりに無茶なことをやってはただの非常識になってしまうので、無茶なことのやり方も考えなくてはいけないけれど、なるだけやってみようと思う。
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切羽へ 井上 荒野 新潮社 2008-05 by G-Tools |
離島の小学校の養護教諭をしているセイと、夫で島の幼なじみである陽介。セイの勤める小学校に、東京からイサワという不愛想な男が赴任してくるー。
セイと、同僚の月江は完全に対称で、結婚して地に足をつけているセイに対し、月江はいかにもコケティッシュであり”本土”に住むから皆に”本土さん”と呼び習わされている男性の愛人である。”本土さん”は自営業で、月江に会うために月に一週間ほど渡ってくる。月江はそれを隠そうとせず、だから島の人間みな知っており大らかなものだ。
それにしても苛立つのは女の心の揺れ様で、既婚ながら石和に興味を持つセイにしても、既婚者と関係を続ける月江にしても同じことで、その恋愛感情自体は有り得べきものだと思うし苛立ちもしないが、自分が完全に安全な場所に身を置いた上で揺れるのがたまらなく腹立たしい。安全な場所に身を置いていながら、さも安全ではないかのように思っている、それに苛立つのだ。
まず目を引いたのはその島の大らかさで、これは”離島”という、狭く閉じたコミュニティに特有のものか、それともモデルとなったと思われる長崎・崎戸町に特有のものか。もしかしたら、世間というのは実はどこでもこれくらい鷹揚なもので、僕が異常に神経質なだけなのか。この小説のポイントがここにないのは明らかなのだけど、月江を巡る男性の諍いと、セイに何も「起こらない」ことの対比に、島の人々の鷹揚さがグラデーションをつけているように思える。
セイは、あまり内面を出そうとしない頑なな男・石和(イサワ)に引っかかりを持って、小学校で仕事を共にしたりするうちに惹かれいく。しかしながら、いつも寸でのところで決定的な一歩を踏み出さずに済む。物語の終盤、夫である陽介を置いて、石和と丘の上の病院の残骸を目指すのは、限りなく決定的に近いが、結局何も起こらない。戻ってきたセイを、陽介はそのまま受け止める。陽介は、自分の”妻”という人であっても、窺い知れない内面があることを認めていて、それをもまるごと引き受けているのだろうか。それとも単に鈍感なだけなのだろうか。そして、外面的には結局何も起こらなかったからと言って、それで「何も起こらなかった」と片付けられるものなのだろうか。単にサイコロがそちらに転がったというだけで、自分の意思でない以上、起きたのと同じことではないのだろうか?
物語は、そういうことを考えさせたいという表情は全く見せない。ただただ、セイを取り巻く三月から翌四月の出来事と心情をつぶさに描いてみせるだけだ。だからこそ逆に気になる。病院の残骸のある丘からトンネルを見ながらセイが持ち出した話、「トンネルを掘っていくいちばん先を、切羽と言うとよ。トンネルが繋がってしまえば、切羽はなくなってしまうとばってん、掘り続けている間は、いつも、いちばん先が、切羽」という言葉が気になって仕方がない。セイの母は、切羽まで歩いて宝物となるような十字架を見つけてセイの父に送った。我々も、自分の人生は掘り続けているしかなく、掘り続けている間はいつも切羽に立て、宝物を見つけられるのではないか、と。そう考えても矛盾する、セイや月江の日々がフラッシュバックする。それこそがまた、人生なのか、と。
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世界は単純なものに違いない 有吉 玉青 平凡社 2006-11-11 by G-Tools |
新聞・雑誌に掲載されたエッセイを集めた一冊。
書かれている内容は、ほとんどが「うんうん、そうだそうだ」と納得できる内容で、もっと言うと、今まで自分が世間の矛盾とかおかしいと思うこととかに対して自分なりに筋道たてて理解しようとした結果が、そこに書かれている感じ。再確認・再認識できる。こう書くとすごく傲慢になっちゃうけど、そうではなくて、何か自分の考えを言ってみると取り合えずの同調よりもすぐ反論を食らう僕としては、頭の中に立ち上った感覚や考えを、納得させることのできる言葉に落とせる力は凄いことだと思うのだ。そして、文章を書くということは、突飛なことを思いつく能力よりも、正しく言葉に落とし込む力があれば道が開けるのだということも。
もっとも印象に残るのは、表題にもなっている『世界は単純なものに違いない』。このエッセイは、『浮き雲』という映画にまつわる話なんだけど、著者は、いいことがおきても悪いことがおきても無表情に見える主人公から、世界はいいことか悪いことしか起こらない単純なおのだから、絶望する必要はない、という結論を得る。けれど、この映画の舞台はフィンランドで、フィンランド人は喜怒哀楽をあまり表に出さないということを知っている僕は、ちょっとその結論に疑問を持った。そしたら、(追記)という記載があり、「この映画のラストシーンの二人の表情は、希望にみちあふれていると見るのが正しいのだそうだ」と書かれていた。でも、著者は「映画の見方に正しいも正しくないもない」と続ける。まったくその通りだと思う。予備知識が多いことで、より深かったり正しかったりする読取ができるかも知れないが、決してそれがすべてではない。
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トヨタ「経営垂直悪化」の深層
p64 「トヨタ生産方式で省けるムダは、部品は仕掛品などの半製品。ところが完成品である自動車は例外。」「増産や生産技術を引き上げるための投資は惜しまない。新車開発のコストはケチっても、工場には高価な最新設備を迷わず導入する」
→昔は「下請け」をこき使い、今は「非正規労働者」をこき使う。要は、以下に身内を少なくするか、に注力してきた経営
p66 「傲慢なグローバル企業になっている。特に顕著なのが技術開発。自社でコツコツ取り組むよりも、カネで買ってくればいいという考え方になってしまった。今のトヨタはビッグスリーとそっくりだ。」
→スピード競争の渦中では、カネで買ってくるのは仕方のないこともある。どんな信念や計画で買ってくるのか?ただ「手を広げる」という意図だけではダメ。多角経営と同じ。
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IT投資で伸びる会社、沈む会社 平野 雅章 日本経済新聞出版社 2007-08 by G-Tools |
p9「工場設計の支配的思想(ドミナントモデル)」
p52 アラル・ワイル
p79「組織と組織成員とを区別しないことに起因」
p85「組織IQ」
p120「トラブルや事故は確率的に必ず起きるもの」
p136「e-Japanプロジェクトでは、行政の組織プロセスや手続きの大宗を変えることなく、単にITに置き換えるデジタル化だけを図るためにIT投資が行われたきらいがあります。」
p155「英国ではオフィスにたくさんパソコンがあるものの、その大半は特定の仕事のみを行うようにシステム部門によってあらかじめセットアップされて専用機となっていたのです」
p205「日本版SOX法・COSO・COBIT」
p209「内部統制に関わる経常的なIT費用は、大体売上高の0.07-0.35%」
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メモリー・キーパーの娘 キム・エドワーズ 日本放送出版協会 2008-02-26 by G-Tools |
1964年。デイヴィッドとノラは男女の双子を授かるが、娘はダウン症だった。デイヴィッドはノラを悲しませないようにと思い、ノラには死産と偽り、施設に預けることにしたが…。1964年から1989年に至る、ディヴィッドとノラ、その家族と周囲の物語。
デイヴィッドが娘フィービを施設に預けることにしたのには訳がある。ダウン症だったから、ダウン症は寿命が相対的に短いから、といった理由だけではない。しかし、もし自分がその立場だったら、死産と偽って施設に預けるという決断ができるだろうか?反対に、ダウン症で生まれてきた子どもを育てていくことに、なんら悲嘆や不安を感じずにいられるだろうか?あるいはダウン症をどれほどのことか把握できるだろうか?何もかもわからないことだらけだった。そして、そのわからないことだらけのまま人生を生きていかなければならないという命の重みを静かに味あわせてくれたのは、この小説が25年という年月を描き切っている長編であるからに他ならない。
デイヴィッドは妻ノラと息子ポールに秘密を打ち明けることができず、その後起きる辛い出来事はすべて、自分のその決断の報いだとして絶えて生きていくことに徹する。その秘密を隠し通したことで、彼と家族のすれ違いは解かれないまま彼は生涯を終えてしまう。その秘密を打ち明けたほうが正しかったのかどうか?デイヴィッドがどこまでそのすれ違いに自覚的なのかは判らないけれど、自分の行いの報いだとしてそれを受け入れて生きていこうとする姿勢は、例えそれが独り善がりでも間違いでも、なぜか共感するところはある。
ポールの「アメリカ人にはうんざりだ」や、ポールの恋人ミシェルの「犠牲を払うのはいつも女」など、しばしば「日本人の習性」といって嘲笑される行動や、欧米ではこんなに男女平等が進んでいるなどと取り上げられる知識が、いかに受け売りで胡散臭いものなのかを知らされる部分があった。一方で、会話で出てきた事柄を真実として前に進んでいくところ、これはやっぱり日本とアメリカで違うところなのかも知れないとこれも改めて思った。日本は、いくら会話をしたとしても、「本当のところはどこか違うところにある。隠されているものが真実である」という感覚を胸に持って生きている感じがどうしてもするから。
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ゆれる 西川 美和 ポプラ社 2006-06 by G-Tools |
しっかり読んだのに、メモを取る前に返却期限を過ぎてしまい、時間に余裕がなくてそのまま返しちゃったのが後悔。人間の感情の襞のイヤーなところを畳みかけてくるところがなかなか良かった。現代文学ではあんまりこういうモチーフの小説がないから。近代小説だとほとんどこういうモチーフなのにな。やはり、現代の問題意識というか興味というかは、人間性ではなくて欲望だからなんだろうかな?近代小説も、もちろん欲望がテーマになってるのもたくさんあるけど、人間性がテーマになってるのも、それと同じくらい存在する気がする。
『ゆれる』は、人間性の問題というより、タイミングの問題なんじゃないかなこれって、と思うとこがない訳じゃなかったけど、妬んだり決めつけたりというネガティブな人間性でドラマが成り立ってて面白かった。最も認識に残ったのは、血のつながりがある関係であっても、あまりに繰り返すと、決め付けが固定してしまうんだなあという怖さ。我が子であっても、「こういうヤツだ」って決めつけてしまうくらい疲れてしまうんだなあと、その点は怖かった。
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悪人 吉田 修一 朝日新聞社出版局 2007-04 by G-Tools |
まず感じたのは、世の中の出来事や仕組みを自分は全然知らないし、見れてもないし、興味も持ててないのだなあという反省。被害者である桂乃が勤めていた業界である生命保険会社についての記述であるp66「社員を循環させることで新規の顧客を増やすこの手の業界」なんかは、自分も長い間社会人をやっているのだから書けそうな一文だけど、もし自分が生命保険会社を説明する文章を書こうとしたとき、この視点があったかと言われたら心許ない。そういった調子で、自分がいかに社会を見ていないかということを痛切に感じた。
悪人探しをしても意味がないと思うし、誰もが悪人である可能性を持ってるという筋ではあるけれど、敢えて誰が本当の悪人か考えてみたい。それは…
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